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これで終わりかね? この小説は。
――編集長がこちらを見ながら言った。そのまなざしからも、私の作品がひどく退屈に感じられただろうことがわかる。私は我にかえった。考えがまとまらず、うなだれていたら、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、私は自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
「ええ、そうです。好きなように書いたのですが。どうですか」
――聞かなくても、答えはすでに知っていた。
「ボツだ。まったく話にならん」
「一生懸命書いたのですが」
「お前の頑張りと小説の出来と、何の関係がある」
――確かに。
「もういい、お前にはマネージャーをつける。さいきん入社した小僧だ。それでも、いるといないとじゃ大分ちがうだろう」
――もう、彼の言葉への興味は、失っていた。それほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、私の意識は、部屋のすみの観葉植物のほうへむいていた。層をつくりながら中空へ細長く伸び絡み合っている、無数の瀕死の葉に目を向けていた。木製で古びてはいるが、案外にしっかりとしているうえ、細かく編み込まれた背と、座と一体になった毛布団が心地いい、ほとんど装飾のない茶色の四脚椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。ずいぶん長いこと? いや、そうかもしれない。時たま外の様子もうかがうのだが、窓からはけして美しいとはいえない、ぼんやりとした景色が広がっている。曖昧な輪郭線、子供が絵具で無邪気に塗りたくったかのような色彩……はたしてそうか? そうなのだろうか……。心を楽しませるものが何一つないような。そうだ、きっとそうだろう。
世界が果てしなく分割され、また、それらが余さず砂粒に刻印されたかのように思われる、長いながい時間が経ち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「どうぞ」
書斎に入ってきたのは気弱そうな青年だった。彼はおずおずと頭を下げたあと、意外と大きな声で言った。
「どうも初めまして、このたび先生……先生とお呼びしてよろしいですね? のマネージャーを務めることになったものです。よろしくお願いいたします」
——この青年が私のマネージャーか。こうして向き合い並んだ彼らは、はたから見ても十分に釣り合った外見をしていた。この様子を見て、二人が血を分けた兄弟であると思う者もいるだろう(もっとも、その場合、どちらが兄でどちらが弟かの判別はつけ難いだろうが)。……と同時に、なにか絶対に相容れない、お互いにお互いがその部分だけはどうしても受け入れがたい、そんな要素をもっていることも、二人の醸す雰囲気からどことなくうかがい知れるのだった。そうだったっけ。私は窓の外を見ていた。遠くとおく広がる風景。認識しきれない情報量。すこぶる不快で、すこぶる美しい自然……。
「先生の作品をいくつか読ませていただきました。とても興味深く、また面白く……」
――彼は熱っぽい口調で語る。しかしその顔を見ても、人の眼にはあまり昂奮しているようには感じられないところが、彼の性質らしかった。彼は明らかに変人と見做されるような口調で、常軌を逸したことを話している。だが彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。そんなやつだったか? 覚えていないな……。
覚えていない? では、これは、記憶か。
誰の? それは私の記憶以外にあり得ない。
私とは? 思い出せない。誰かではあるはずなのだが。
――そういえば、これといって特徴のない男である――かといって影が薄いということもない。何らかの印象は人に与える人物なのだが……いかんせんそれが「名状しがたい」のだ。
といっても不気味な印象でもなく、かといって底抜けに愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、床屋に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、くりっとした目玉、そこそこ聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼が先ほど書いていた小説……その中の登場人物たちなどに比べると、彼が虚構の人物ではなく、現実の存在だとということを鑑みても、やはりあまりにも目を引く魅力のようなところがないし、また「あまりにも平凡すぎて人の目をかわすことができる」ほどには個性に欠けていないところが、彼の最大の不幸かもしれなかった。
たとえば、鷹揚で社交的な人々からは「平凡人」扱いをされ、逆に目ざとく陰湿な連中からは「カモ」にされやすい、といったちょっとした悲劇も彼の風貌からは起こり得た。
もちろん、そうでない、彼にとって幸福な結果をもたらす可能性もなくはなかったが、(これは後で詳しく述べることだが)彼のこれまでの半生は全体として引算の方が多かったとも言えた。
と、そんなふうに書かれたこともあったっけ。書かれた? 誰に? なぜ? どうやって?
書かれたことはすべて正しい。ただしそれは浸食だ。
私も浸食しよう、書くことによって。ただしすべて正しいとは限らないが。
私は血をたっぷりと吸った八咫烏の羽根先でしずかに、しっかりと刻み始めた。
《私は薄れゆく意識の中で、いつのまにか右手で握りしめていた黒い羽根に気づいた。私は咄嗟にそれを左手の甲に突き立てた。鋭い痛みが襲った。羽根は私の血をぐんぐん吸い取って全体が真っ赤に染まった。私は這って二人の男のほうに近づき……二人の男はもうその場にいなかった。天使の羽根だけがノートの上をむなしく踊っていた。私は天使の羽根を血まみれの左手で握りつぶした。それから赤く染まった八咫烏の羽根でノートにこう書いた。『嘘』》
そうだ、私はそれでここにいるのだった。私はA。或る、しがない小説家……。
では、ここはどこだ? 『ヴェクサシオンの街』のはずだが……。
そうだ、書こう、街の様子を……。
《あたりは一面の焼け野原。遠景は泥の海。まるで世界の終わりと始まりが同時に存在するかのようだった。実際に、そうなのだろう。これは一つの「祭り」なのだろう》
実際に、そうなった。私を取り巻く風景は『私が書いた』風景。
あれから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう?
時間が知りたい……。
《私は目を細めて、はるか遠くの山々を眺めた。それは見えないはずだったが、見ることができた。そして私は見た。山々を抜いて聳え立つ巨大な「塔」を……》
「『時計』が時を告げる時ですな」
「時計?」
「この世界の中心にあるという、巨大な時計です。その時が来れば、その『時計』が時を告げるのですな。もっとも、今度の『周期』は、少々長すぎるようじゃが……」
《私たちが最初に降り立った場所だ!》神は咄嗟に考えを巡らせた。
「ひょっとして、その時計は、いつも、大地に横たわっているのではありませんか?……まるで眠っているかのように」
「とんでもない! 伝説によると、それはもう立派に、天空にそそり立っているのでござるよ……わが街自慢の鐘塔しょうとうも比べ物にならないほど、長々と、しっかりと、まっすぐに」
あれこそが『時計』だ。私の目指すものだ。
あるいは幻かもしれない。いまだに時は大地に横たわっているのかもしれない。だが私には見えた。たしかに見えた。たしかに私は「見えた」と書いたのだ。けして嘘ではない。
あの場所に行かなくてはならない。
口笛を鳴らす音がした。振り向くと、熾天使がこちらをじっと見て立っていた。
「わたしの取り調べはすんだのか?」
「緊急事態だ。釈放の代わりに、あなたの手伝いをしろと言われた」
「そうか。それなら話は早い。私を乗せてあの『塔』まで行くんだ」
「『塔』か。わたしには、そんなもの見えないがね……まあいいか、乗りたまえ」
天使は後ろを向いて少しかがんだ。私は彼の背におぶさった。
『そして彼はたちまち大きな白い鷲になった。この鷲は私の言うことならなんでも聞くだろう。そして私はその巨躯を自在に操って見事「時計」までたどり着くだろう』
「こんな時に、なにをまあぶつぶつ言っているんだね? もう飛びたつよ」
私は彼に気にしないでくれ、と言い、彼は人間の姿のままゆっくりと羽ばたき始めた。




