*
指窮於爲薪 火傳也 不知其盡也
指を薪と為すこと窮むれば、火傳わりて、その盡くるを知らざるなり。
(火が消えそうなときは)その指先を火に近づければ、火は伝わって、消えることがない。
――――荘子
「なんだね、その文句は」
「さあ? 意味は読むやつの間でも意見が分かれているらしいぜ」
宮田はつづけて書き進める。
ようこそ、『ヴェクサシオン』の世界へ。
さっそくで悪いのだが、まずは、私の独り言を聴いてはくれないだろうか? なんだって? 時間がない? いや、ほんの少しの間だけで構わない。たぶん、五分とかからないさ。けして〝お暇な読者よ〝――なんてことは言わない。今は、そういう時代だ。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションだぞ」
「なかなか楽しいもんだな」
「どんな話だったっけか」
「たしか、こんな話だぜ」
高い本棚に囲まれた、せせこましい書斎。住人の無精のあらわれか、部屋にはものが散らかっている。南向きの大きな机があり、いろいろなものに囲まれて、一台のノートパソコンが置かれている。その前には一人の男が座っていた。
これといって特徴のない男だった。かといって影が薄いということもなかったが、人に形容しがたい印象を与えた。
けして不気味な印象ではなく、かといって愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、理髪店に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、ぎょろぎょろした目玉、少しばかり聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼は先ほどからパソコンのキーを叩いて、一編の小説を書きつつある。
彼は不愉快だった。スマホの振動がここ三分ほど止まない。
相手はわかっている。うんざりした。諦めてくれればいいと思っている。
「はい、もしもし」
しぶしぶ耳にあてると、思った通りの快活なテノールが返ってきた。
「只今留守にしております。用件のある方は……」
「用件なんてない。きるぞ」
「いやいや、冗談にきまってるじゃないか」
「ジャイナ教徒も冗談を言うのか」
「俺は心のジャイナ教徒だよ。ただ、憧れてるだけだ」
「また、遊ぼうっていうのか。巷には感染症が蔓延してるんだぞ」
「まだ、小説を書いてるのか? いいかげん、完成させろよ」
今書きだしたところだ、と言うと、相手は笑った。
「公園でおちあおう」
友人の浦島と会うため、道行くマスクの間をすり抜けて、宮田は公園へと向った。
令和になったんだなあ、と宮田は考えた。平成が終わるなんて信じられなかったよ。感染症が世界中で蔓延してはじめて、平成が終わったことを実感した。不意に目前に令和なる時代が来たのだ。令和なる時代が来てもピンとこなかったが、令和はすべてを一変させてしきりに鈍感な宮田の気を引いてくるのだ。
公園には裸の桜が寒そうに震えていた。なぜ日本人はこんな植物を好きになるのだろう、と宮田はあらためて疑問に思った。恐らく情緒的なものだから、誰も論理的には答えられないだろう。でも裸の桜の枝や幹や根は、やっぱり論理そのものじゃないか。散る花にも理由があるはずで、それを単なる情緒だと想う発想は宮田にない。桜が好きかと問われれば、気まぐれな宮田の答えは八割がたノーだった。
浦島は先にベンチに待っていた。
「寒いな。家に帰ろう」
「帰ろうったってどうせ俺の家だろ」
「そうそう、お前からみて帰るってことになるだろう」
公園までは徒歩で二十分あるから、また部屋を暖めなおすのには時間がかかった。
面白い小説を書けよ、と浦島が親のような微笑で宮田を鼓舞した。宮田は俺に彼女がいれば、と心の中で口惜しく思った。こんな無責任な応援は甘んじて受けなんだ。
「芥川龍之介のような小説を書け」
「無理だよ。お前が書けよ」
「人間、失格」
「それは違う作家だよ……」
テレビをつけると、大統領選挙の結果が出ていた。民主党の代表が勝ったらしい。大統領も交代だ。
「おめえはクビだ!」
浦島は渋い顔をして宮田を指した。軽薄さは本物より上だった。いや、本物も間近で見たことがないから、本当に軽薄かどうかはわからない。人がそういっているのを聞いただけだ。
「今日、書きだしたのか? 前から書いてなかったか?」
「前のはボツだ。これから新しく書き直すんだ」
「俺たちを待っている時間は有限だぞ」
宮田は浦島の方を見た。テレビにくぎ付けになっている。
「桜の花はまた咲くぞ。時間は無限だよ」
宮田は心にもなく言った。
「二度と咲かない花もあるさ。二度と咲かない花の咲く年もあるのさ」
演歌調で答える浦島に、宮田は興味を持った。
「でもジャイナ教の世界観では、時間は循環し続けるんだろ」
「でっかく見ればな。小さく見れば一瞬一瞬に終わりがあるってもんじゃあねえか」
歌舞伎かなにかのマネゴトを始めた相手をみて、宮田は落胆した。
そのとき、不意に浦島の脳裏に黙示録的なビジョンが到来した。
「スベテノ花ハ咲カズ、二度ト咲クコトモナイ」
浦島は思った。俺の天才的な思い付きは、いったい誰が俺にくれるんだ? だがそれ以上には思い至らなかった。
浦島はけして愚鈍で軽薄な男ではない。これは浦島の持論だ。そもそも、すべての人間は何らかの概念で形容できるような代物ではない。そこには、様々な、あらゆる視点があるだけだ。
宮田は浦島のそんな考えを「ジャイナ教的」と評したことがある。浦島の多面的な見方をのみみて、そう言ったのだが、はたして彼はそれを鵜呑みにして、「心のジャイナ教徒」と自称するようになった。彼はジャイナ教についての書籍を読んだり、ネットで調べては、狭い部屋でひとり感心している。彼にとって初めての体系だった思想だったのである。
対して、宮田には核となる思想がなかった。思想のようなものさえなかった。思考することはしたが、それが何らかの形となって現れたり、例えば聖書などを読んで雷に打たれたような錯覚を覚えることも無かった。ものごとについて感動する力は平々凡々そのものだった。そういう点で彼は友人たちを尊敬していた。よくも臆面もなく感動できるものだ。そうやすやすと、寛大に。
「二度と咲かない花もある、か。その通りだ。俺の花は二度と咲かない」
「一度モ咲カナイヨ」
一度くらいは咲くだろう、と宮田は呑気に考えた。
テレビでは、大統領選に勝利した代表が現職を感染症のことで批判していた。速やかな政権移行が無ければ感染症による死者が増えてしまうということだった。
「多面的に見て、大統領は誰なんだ」
浦島はしばらく考えていたが、何も言わなかった。テレビを見ながらアメリカの国家を鼻歌でうたっていた。代わりに関係のない事を言った。
「小説のタネとネタは同じか、違うか?」
「タネは執筆のきっかけになるヒントだろ。ネタは肉付けのための要素さ」
「小説書くんだから、もっと小説的なことを言えよ」
「お前はどう思うんだよ」
「俺が読んだ本にはな、こう書いてあった。小説では、タネとネタは違う。違う上に、反発し合ってる。それで、小説というのはその反発の繰り返しなんだ。絶対に解決しないのさ」
「終わんねえじゃねえか」
「終わるだろ。俺たちに残された時間は有限なんだから」
「俺に小説を書く時間はあるのか?」
最高に面白い小説を書けよ、と言って浦島は微笑した。終わりなんてどうでもいいじゃねえか。どっちにしろ終わるんだからよ。
「何が終わるんだよ。どっちにしろ、ケリをつける必要はあるだろ」
浦島はテレビから目を離さず、牛のような返事をした。あるいは蛙のようだったかもしれない。牛蛙かもしれない。だとしたらやはり蛙だ。蛙牛というと、字面だけみれば蝸牛に似ている。ちょうど、テレビの向こうの窓ガラスにカタツムリが這っているのが見える。裏側からのぞく形になっているから、殻の渦巻は見えない。
「終わりが見えないような、絶望的な小説を書けよ」
と宮田は浦島に言った。
「え、俺が?」
「ジャイナ教徒だろ、輪廻の軛を衆生に知らしめろよ」
「どういう意味だ。どうせ窓のカタツムリの渦巻を見て連想したんだろ?」
「こっちからじゃ渦巻は見えねえよ。外からなら見えるだろうけど」
「外に出て確かめろよ。渦巻なんてないから」
「お前、ジャイナ教徒じゃないのかよ」
「いや、心のジャイナ教徒だよ。カタツムリ教じゃねえよ。カタツムリ教だとしても、渦巻は何物をも表してねえよ。これは輪廻、これは輪廻じゃねえってことはねえよ」
「どういうことだよ」
「知らねえよ。そろそろスマホが震えるぞ」
はたして本当に震えた。
「よくわかったな」
「はい、もしもし」
あわてて耳にあてると、予想外の快活なテノールが返ってきた。
「只今留守にしております。用件のある方は……」
「これが輪廻か!」
恥ずかしさと混乱で、宮田はゲラゲラと笑い出した。浦島はその前から笑っていた。……
「こんな話だったっけか」
そのうちに盥屋も執筆にくわわった。
こうして二人は『ヴェクサシオン』を書いていった。そしてとうとう二人が神をやっつけた段になり、彼らは先ほどまでの出来事を細大漏らさず記述していった。
そして、小説はまさにこの時点まで来た。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションが大事だぞ」
「なかなか楽しいもんだなァ」
「古典調でやってみよう」
「ほいきた」
やうこそ『ヴェクサシオン』の世界へ。
さつそくで悪ひが、まづ私の独り言を聴ひては呉れないだらうか。何、「時間がない」と。いやほんの少しの間だけで構はぬ。多分五分とはかかるまい。セルヴァンテスの如く「お暇な読者諸君」なんといふことは言はぬ。さういふ時代に吾吾が住まうてゐることは百も承知である。
其れはさうと、私は今可笑しい事を言うてそのうへ諸君に求めてゐる。「独り言を聴ひて呉れ」これは明かな矛盾、少なくとも言葉として酷いほど矛盾してゐはすまいか。いや吾が孤独を嘲笑ひたければ好きにして呉れ給へ。さうぢやなくてこの命題自体の矛盾である。さうさう。此れこそ私の究極にして最終の苦悶である。
常に私の頭からかういふ難問が離れぬ。
――何故人間は矛盾を絶えず生み出すのであらうか。言葉にせよ行為にせよ。……
蓋しかやうな問いこそ當に此の小説の主題となる。
此の世界には確かに「夢ごこちにさせる程退屈な交響楽」があり「胸のすく程下手な肖像画」が在る。併し乍ら言葉は論理といふ骨格をもち、論理は原理として矛盾を許さぬ。詰まり「魅して離さぬ支離滅裂なる珍小説」など決して決して在り得ぬ。断じて不可能である。
併し、在り得ぬと言ふ其の唯一点一事に情念の薪をくべ摩擦力で以て炎と成し、全天を覆ふ狼煙を揚げるのみが前へ前へ進みゆく我我の発展を引導する。人類の悲願とは竟に「全き矛盾」つまり「超矛盾せる超矛盾」を自ら作り仕上る事唯一点に盡きる。
成る程「神神しき不気味さ」だ「明証せらるる意味不肖」だとかいふ概念を浮かび揚がらすには莫大な苦悩の時と非常な労力が要る。此の愚かな試みに読者がさうしたやうな矛盾せる重みを受け抱くかは知らぬ。解きほごすのは諸君のはうであるから。
愚かではあらう。が併し「無理無体に対し突き進みゆく蛮行」を矛盾とは言へぬ。矛盾とは盾に突き進む矛の荒荒しき靈である。人間の荒廃する歴史は全て盾にうち負けて来た屍の山である。次こそ次こそはと肉と靈はそこに己を賭けて猛進する。堕落せる皮肉屋も達観せる覚者もそこのけ。蓋し彼ら勝利せるはやがて敗者なるべし。天より見下ろすも深淵より見上ぐも片手落ちの相を呈すべし。なんとなれば矛盾を創り上げる魔の工場は地上にのみ立つ。
無限の瞳が未だ為さざる吾吾を宇宙より眼差す。
――人類、何程の事やある。
畢竟この一大散文の主題は矛盾其れ自体であり矛盾せる主題である。錯綜、奇妙、破綻を孕み運行せる暗箱である。
黒笑と暗愚に充ちた筋立てと役者連の繰出さるる一大茶番劇たる事を約束し断つて置く。
理解せる読者は理解せられたし。無理解せる読者は其れも又或理解なり。
以上。賽は虚空に放たれぬ。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションが大事だぞ」
「なかなか楽しいもんだなァ」
こうして二人は『ヴェクサシオン』を書いていった。そしてついにはこの場面となり、彼らは先ほどまでの出来事を細大漏らさず記述していった。まで書いた。と書いて、そのつづきを、書いた。と記している。と天使の羽は乾くことなくノートに紙魚を、ではなくて染みを、つけていく、この一連の作業は空白の無くなるまで続いていくであろう、いつまでも、どこまでも、だれかによって。
(数ページ空白)
そのページにはべったりとした紅い文字でこう書かれている。
『嘘』




