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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第六章

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 街はそこらじゅう泥びたしだった。盥屋と宮田は軽快に小走りしながらそんな街中を進んだ。奇妙なことに彼らの服がはねた泥で汚れることはなかった。

「宮田、なんだか楽しみじゃないか?」と盥屋が言った。

「ああ、楽しみだ! ひどくわくわくするよ」と宮田が答えた。

「ところで提案なんだが、この一連の茶番が終わったら、一緒にジムノペディを聴こうじゃないか」

「へへへ、盥屋さん、お誘いありがとう! たいそう珍しいことで……そうだな、なにもかも終わったら、ゆっくり変人のつくった名曲を聴くのもいいな」

「グノシエンヌも」

「なんだいそれは?」

「曲名さ。私はそっちのほうが好きなんだ」

「オーケー、じゃあそっちも聴こう……」


 神は役場の焼け跡で悪魔たちを待っていた。不安だった。冷たい風が吹いた。長い時間が経った。それともほんの一瞬のことだったか。

 二人がやってきた。

 盥屋が神の前に立った。

「お久しぶりです、神よ。再び会えたことをうれしく思います」

「やあ、盥屋。少し背が伸びたかな?」

「そう見えますか」

 神はそれには答えず、盥屋の隣でにやついている宮田に言った。

「停戦協定は破棄されたのかい?」

「そんなものは結んでないな」

「確かに、そうだったな。いきなりいなくなったと思ったら、今度は何の用だ?」

「お礼を言いに来たのですよ」と盥屋が言った。

「それならもう十分だ」

「いや、まだ言い足りてないね」と宮田。

「お前たちを創ったのは私だ」神は自分に言い聞かせるように語り始めた。「だが、君たちには感謝されたくはない。なぜなら、創った私が創ったことを後悔しているからだ。もちろん、君たちが本当に感謝する気はない、どころか私を憎悪していることもわかっている。だからこそ聞いてくれ、君たちは自由だ。感謝することも憎悪することもできる。だからこそ私などにかかわらないでくれ」神は叫んだ。「放っておいてくれ!」

「では何のために我々はここまであなたを追いかけてきたのです? まるで馬鹿な話じゃありませんか」

「馬鹿なのは私だった!」

 神はその場に這いつくばった。

「君たちを勝手に創って、勝手に逃げてしまった。君たちは被造物であり、被害者だ。創造行為の害悪を、私は知らなかった」

「三文売文業だかなんだか知らないがね……」宮田は愉快気に神をなじった。「いい加減なことしてくれると、困るんだよ! このトンチキ!」

「彼をいたぶるのはよしたまえ」盥屋は静かに言った。「彼はもう神ではないし、我々は自由なのだから。そもそも、確かに我々は彼のおかげでこうしてここに存在している。そのことだけでも考慮してやらなくては」

 Aは涙に濡れた顔を上げた。

「なんだ、私はなにをしている?」

「なにって、謝ってるんだろ。自分で分からないのか」宮田がいぶかしげに言った。

「盥屋、お前なにをしたんだ」

「なにって、ただ念じただけですよ、あなたが我々にひれ伏して、懺悔するようにね」

「念じた?」

「意志の力ですよ」盥屋はつまらなそうに呟いた。

「この野郎!」

 Aは盥屋に殴りかかったが、たちまち宮田がその間に入ってAの腕をひねりあげた。宮田は「暴力反対!」と言うとAの額を指で弾いた。Aはその場にしりもちをついた。

「……マネージャー君はどこだ」Aはそのままうつむき、低い声で訊ねた。

「さあ。知っているか宮田」

「そういえば、はぐれちまったな」宮田は興味なさげに答える。

「この野郎!」

 Aは宮田に殴りかかった。が、盥屋が「停まれ」と命じると振り上げた手をピタリと停め、そのまま動かなくなった。

「意志の力ってやつか?」宮田はゲタゲタ笑い出した。

「この作家は意志薄弱なんだね」盥屋もまんざらではないようだった。

「この野郎!」

 Aはそう言うと自分を拳骨で殴り始めた。鈍い音が響いた。

「これはお前の指図か? それとも自分に腹を立てているのか?」

「さあ、どっちかな」

「ところで、なんでここまで来たんだっけか?」

「これのためさ」

 そう言った盥屋の手には、白い羽が握られていた。

「なんだ、それは?」

「天使の羽」

「天使なんているわけないだろう」宮田はふたたびゲタゲタ笑い出した。「この世界はみんな嘘っぱちさ!」

「そうだ、嘘っぱちに違いない。では終わらせてしまおう」

 盥屋は役場の焼け跡の方に歩いてゆき、なにかを探し始めた。

「さすがにないか」

「なにを探しているんだ?」

「紙さ」

「神?」

「そう、紙。書くための……」

「なんだ紙か。ほら、ここにあるぜ。やるよ」

 そう言うと宮田はポケットを探り始めた。

「そういえば、紙なら私も持っていたな」

 そう言った盥屋が懐から取り出したのは、『僕たちのなにげない愛の終わり』という本だった。しかしすでに声に出して読んだことを思い出し、再び懐にしまった。

「あった!」

 宮田は様々なゴミくずを落としながら、一冊のノートをポケットから取り出した。

「ほらよ」

 盥屋はノートを受け取ると、何の気なしに()っていたが、やがてほんの少しの笑みを漏らした。

「宮田、これはなんだい? 詩人・宮田の傑作が収録されているじゃないか。どれどれ……」

「いけねえ! 破り捨てるのを忘れてたぜ。いったん返してくれ」

「ほら、どうぞ。……しかしせっかくだから、いま読んでくれよ」

 宮田はノートを受け取りながら、苦い顔をしたが、一瞬かんがえて、

「まあせっかくだし、いいか。こいつへの鎮魂歌(レクイエム)だ」と言ってAを見た。

 Aはいまやぐったりと地面に横たわっていた。それは呑気に寝そべっているようにも見えたし、病に伏せっているようにも思えた。

「じゃあ、いくぜ……」

宮田は大きく咳払いをした後、すこし濁ってはいるがおおむね聞き取りやすいバリトンでノートの文字を読み始めた。



稲妻が指先によぎる

インクを透して紙を焼く

焦げた紙の上の跡を

失われた木霊として聞く

やがて時が経ちまた

雷の日が訪れたなら

忘却を忘却し

泥の中から再び

許された余韻が

姿を顕わす

乙女の花冠に祝福を

道を厳かに けれど優しく

彼女らは歩み来たる

神秘の小道から踏み入れた深い森を

「聞こえるか

その声の声が言祝ぐ静かで賢しき声が」

大地の底から

どよめく霊たちが

なべて圧し上がってくる

果てし無い夢のまどろみを

泡立つぶどう酒の酔いを

覚まし来たる

現れたのだ 時は

果てから来て果てを知らぬ者たちよ

そして先に先に先に行くことで

後に後に後になってゆく

大地と天の結婚は遠く

永遠の未だ成され得ぬ

遁走の喜劇 友情よ

願わくば共に この

神々の演じる宴を

ほほ笑みながら

うち興じようではないか

砂漠から生き伸びた

蝶よ その弱々しくも

気高い羽で 俺たち

の乾いた泉を

あおいでくれ たちまち

穴は豊かに満ち

すがすがしい冷気が

山のあなたから吹き

降りる その時

蝶よ お前が静かに

休める場所を俺の

影に見い出して

くれたなら……

また万象は廻り出す


「しかしそれにしても、君はいい声をしているんだね。五点をあげよう」と盥屋は無表情で言った。

「何点満点中の話だよ? しかしまァ、恥ずかしいけど、いい弔いにはなったぜ!」

「これは神へささげた詩なのかい?」

「それは読者の解釈にゆだねる」

「そういった態度は無責任じゃないかね?……まあ、とにかく」盥屋はため息を吐いて言った。「これで本格的にお仕舞だな。もうひと踏ん張りだ」

 宮田からふたたびノートを受け取ると、彼は羽の先っちょを舌で湿らせ、紙の上に滑らせた。蚯蚓のような文字が躍ったが、なにか気に入らないのか顔をしかめた彼が、フッと息を吹きかけると、それはあっという間に吹き飛んでしまった。吹き飛ばされた文字はしばらく虚空を舞っていたが、冷たい風が吹いてそれを遥か彼方へと運び去ってしまった。

「ちょっと、手伝ってくれないかね」

「なんだ?」

「君の文才を見込んで頼みがある。ある小説の序文を書いてほしい。私には難しくて」

「唐突な話だな! なんていう小説だ?」

「……もちろん、『ヴェクサシオン』さ」

 宮田はきょとんとした顔を見せたが、すぐさまにやりと笑った。

「くくく、どういうことだ?」

「ふふふ、私はずっと考えていたんだよ、どうすれば、彼を超えられるか、ケリをつけられるか。そこで思いついた、書いてしまえばいいんだ! 『ヴェクサシオン』を。簡単なことさ。我々が我々にふさわしい小説を書いて、何が悪い? いいじゃないか、作中人物が作品を書いたって? いや、むしろ珍しいことではない、書くべきだ。我々の手で、我々なりのロマンを書こうじゃないか」

「考えてみればもっともな話だな!」宮田は答えた。「何もかも嘘、ということになれば俺たちだって自由になれるというわけだ。でも、こんな中途半端に終わらせちまったら読者が消化不良を起こすんじゃないか?」

「『ヴェクサシオン』に読者はいない!」盥屋は笑いながら叫んだ。「これは我々だけの話じゃないか。第一、読者がいたとして、ここまで読んでいる人なんていないさ」

「まあ、それもそうか!」

「さあ、書いてくれたまえ!」

 宮田はしばらく思案した後、ノートに宮田流の『ヴェクサシオン』を書き始めた。それはこういうふうにはじまった。

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