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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第五章

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 ひとりパイプ椅子に座ってAの遺した原稿を読み漁っていた編集長は、牛頭の大男、パワーの部屋に入ってきたことに気が付かなかった。長い影が紙上にまで伸びて、やっと禿頭を振り向かせた。

「おお、お前さんか。どうした、鳴き疲れて腹が減ったか? あいにく、俺は食い物なんて持っとらんよ……それくらいは理解できるだろう。それとも、俺を食っちまうのかい?」

 牛頭が黙ったままでいるので、禿頭はどきりとして、馬鹿にした口をきいたことを悔いた。

「すまない、すまない! 冗談だよ、悪気はなかったんだ、こっちも腹が減っていてさ」

 実際、彼はしばらく何も口にしていなかった。

パワーは黙ったままである。

「なにか嫌なことでもあったのかい? あの娘に怒られたか?」そわそわしながら訊ねる。

「なにか嫌なことでもあったのかい、か……」そう言って牛頭はなにか思案するかのように静かに顎へと手を添えた。その声は意外にも聞き取りやすく、理性的でさえあった。

 禿頭は相手の物腰の変貌ぶりに、思わずぎょっとしたが、さして意に介さないふりをして、

「そうオウム返しにされちゃこっちも困る。まずいことを言ったかね?」

「いや、そうではない。じつは、私は君に同じ質問をしたかったのだ」

「同じ質問?」

「そうオウム返しにされても困る。……君はなぜ、いつもそんなにイライラしているのか。それが訊きたかったのだ」

「そう見えるかい? 悪かったね」編集長はなぜとなくいらつきながら返事をした。

「君だけではない、これは人間一般の問題だよ」牛頭は部屋を行ったり来たりしながら語り始める、「人間は、常にイライラしている。ほとんどの人間がだ。イラついていない人間は、馬鹿だと思われる。思慮の足りない者と見做されるんだな。つまり、人間にとって考えることとはイラつくことと同じだ。そもそもイラつくとは、怒りの種を育てることだ。怒りを育て、いつか花開かせる。つまり、人間にとって、思索を深めてひらめきを得るということは、怒りを貯めに貯めて、ある時いきなり癇癪玉を破裂させることと等しい」

「そんなはずはないだろう」眉をひそめて反論する。「素晴らしいアイデアが癇癪玉と同じだって? そんなはずはない」

「そんなはずがあるのだ」牛頭は続ける、「人間が考えをめぐらす時というのは主にこういった時だ。誰かと言い争う。何かを創ろうとする。自分というものの正体を知ろうとする。そして、誰かと言い争った結果、相手を論破する薄汚い屁理屈が生まれ、何かを創ろうとした結果、簡単に無数の人間を殺すことのできる兵器を創り上げ、自分というものの正体を追い求めた結果、自ら命を絶つ羽目になるのだ。これらは怒りと何も変わらない。あたりかまわず喚き散らし、周囲のあらゆるものに手をあげ、ついには自分自身も滅ぼしてしまう怒りと」

「お前さんは」と諭すように訴えかける、「人間じゃないからそう言えるんだ。人間ってもんはなかなかどうして楽じゃない。お前さんにはわからないだろうが、生きている限りいやでも緊張を強いられる動物なんだよ。まず、社会というものがあってだな……」

「だからその鬱屈を」牛頭は低く笑った。「思考にさえ反映するのか? 私たちのような人間の想像力から生まれた存在にしてみれば、いい迷惑だよ。君たちの気分次第で、我々は美しくも醜くもなる。正確に言えば、美しいとみなされたり醜いと決めつけられたりする。どちらにせよ、自分たちが創ったのに。我々も、我々に対する価値基準も」牛頭はため息をついた。「倫理基準もそうだ。君たちは道徳というものを不用意に定義しすぎだよ。おかげでこの世界では、コンマ一秒ごとにその意味合いが変わっているじゃないか。だから道徳を守れるものもなければ、破ることのできるものもこの世界にはいない。これは人間が道徳を自覚した時からすでにそうだよ。昔は道徳があった、などと考えている人間や、未来に新たな倫理を創り上げよう、なんて考えている人間もいるようだがね。両方ともバカバカしい話だ。預言者が神の啓示を受け、必死に岩に彫った戒律の前で、異端者が黄金の牛を担いでどんちゃん騒ぎ、という挿話の書かれた書物を読んで罪を悔いる信徒、の描かれた絵画を眺めてその値踏みをする守銭奴……いったいに人間は何がしたいのだろう。君たちの最終目標は。訊いても無駄だろうがね」

「お前さんこそ何が言いたいのかね?」いまや腕を組んで神妙な顔つきで訊ね返す。「そんな批判は今までも、そしてこれからも無数にあるだろう。それを乗り越えて人間はやってきたし、またやっていくはずだ。確かに俺にも人間が何をやってきたのか、結局なにがやりたいのかはわからん。しかしこれまでそれを考えてきた立派な人は無数にいるだろうし、これから生まれてくる赤ん坊のなかにも数えきれないほどいるだろうということは、お前さんもよくわかっているんじゃないかね」

「まさにそれが君たちの陥っている誤謬だ」とパワーは指摘する。「俺たち人間が天に輝く星々だとして、この空のどこかに、他の星を明るく照らし出す大小さまざまの恒星がいくつも見つかるはずだ、とね。だが私は君に聞いている、なぜ君たちは怒りを思考と混同し、夥しい数の創造物と、それを評価する価値基準をつくりあげるのか……それらがすべて一瞬のうちに消え去り、意味のないものとなるにも関わらず。それに対する君の答えはこうだ、この夜空を見上げてごらんよ、きっとどこかに、それを知っている偉大な星が光っているはずさ、とね。私は他の星にも質問する。すると同じ答えが返ってくる。それこそ星の数ほどくりかえすことができるだろう、この問いは。しかし答えは通り一遍、一様の金太郎飴だ。人間は全体として見ればなにか薄ぼんやりとした光を放っているように見えるが、一つ一つ眺めていくとただの石ころに過ぎない」

「ただしそれは考える石ころだ!」編集長は上気した顔で叫んだ。

「ただのイライラした石ころだ」と牛頭はのんびりと汚れた壁を眺めながら言った。「なんの意味もない。いや、いつ破裂するかもわからないから、少し危険だな……ちょっとは処分した方がいいか」

「お前ら天使も、やっぱり敵だな?」興奮して問いただす。「人間をおまえらの勝手な論理で、粛清しようと思っているんだ!」

「そう喚いてくれるな。冗談も通じないとは、やはり人間は知的動物ではないな。自分の置かれた立場をわかっていなかったり、過剰に意識してしまったりする。私たちはいま、特殊な状況下にある。人間全体をどうにかするというような『高等な議論』をすべきなんじゃないのかい?」

「それは」鼻息を荒くしつつ静かに答える。「俺にはとてもできんな」

「何故だ?」

「人間じゃない奴と今後の人間の処遇について議論するなんて、俺のプライドが許さないのさ!」

「そんなプライドは」牛頭は小さくため息をついた。「捨ててしまえよ。義理人情も捨てるべきだ。だいいち、あの神にすらプライドがないのに、どうして人間はプライドだなんだとしきりに騒ぐんだ?」

「神にプライドがないなんて、あんたがどうして知っている」

「その神を知っているからさ。永遠に変わらないもの、変わるはずのないもの、なおかつ変わり続けるもの、変わらずにいるはずのないもの」

「その神はどこにいるんだね」

「ははは、君の後ろにでもいるんじゃないか。よく周りを見てごらん」パワーは禿頭の方を向いていった。「さて、そろそろ時間だ。君がそのつまらないプライドを捨て去ったら、教えてくれたまえ、また会いに来るから」

「時間? 時間ならまだまだ、たっぷりあるぞ。ほら……」そう言いかけて、彼は時間のことを考えようとした。しかしなぜかそのことについて思考の触手が伸びていかないのである。

「おかしいな? これじゃ、まるで」


「夢……」

 目を覚ました時、はじめに認めたのは少女、ケルビムだった。愉快そうに微笑している。

「ずいぶんお休みでしたわよ。疲れていらっしゃったのね」

 先ほどまでの一切が夢とわかっても、なぜか居心地が悪かった。

「原稿を読んでいたら、いつのまにか……」と言い訳がましく言った。

「よい夢は見られましたこと?」

「ハラヒレホロヒレ。なんだか、妙な夢だった」

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