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街を覆う奇妙な霧は、依然としてその規模を広げていた。隣の街、そのまた隣の街……と、霧は悪夢のようにすべてを飲み込んでいった。霧に包まれた街の人々は、どことなく顔色が悪くなり、全身から生気が失われるのだった。それは単に陰鬱な霧のせいで気分が落ち込んだだけではなく、他ならぬこの霧こそが人々の生命力を吸い取っているのだ、とだれもが感じていた。これについては証明のしようもなかったが、しかしそれ以外に原因のありようもなかった。
そのうちに、奇妙な噂が立った。街はずれの古びた洋館から、夜な夜な不気味な呻き声が聞こえるというのである。
素行の悪い若者たちがその噂の発信元だった。彼らの未熟な血はこの状況下でも騒ぎ、新たな遊び場を求めていた。そこで目をつけたのがその洋館だった。ある夜、彼らはバイクで大きな門の前まで来た。一人が扉に手を触れようとした時だった。おおおおん……おおおおん……と、獣の雄叫びのようなものが聞こえた。彼らは度肝を抜かれて一旦その場を離れた。それからもしばしば怖いもの見たさに洋館を若者たちが訪れたが、やはり誰もがその不気味な雄叫びを聞いたのだった。
さっそく街の有志が集い、調査団を結成した。その理由の半分は街の治安のため、半分は好奇心のためである。彼らは門の前に立った。おおおおん……おおおおん……本当に聞こえた! 彼らは顔を見合わせ、覚悟を決めて頷いた。
一人が門に触れると、それは勝手に開いた。不思議がってあたりを調べたが、仕掛けのようなものはなかった。広い庭を進む。そこには雑草しか生えていなかった。濃い霧の中で、彼らは人魂を見たような気さえした。
入り口の前に立った一行は、しばらく手入れのされていない、外壁には蔦が絡み放題の、朽ちかけた洋館の姿を見て息をのんだ。
一人が大声で言った。もし、誰かいませんか。少しお訊ねしたいことがあるのですが、かまいませんか。
返事の代わりに、扉が軋んだ音を立てて開いた。やはり仕掛けは見当たらなかった。
おそるおそる館内に足を踏み入れる。一同はぎょっとした。建物の中にはなにも無い。家具も、絨毯も、シャンデリアも、こうした館にはつきものの調度品その他もろもろが一切存在しないのだ。エントランスはがらんどうで、幽霊屋敷のようだった。
一階には多くの部屋があった。食堂、書斎、大広間、服の収納部屋、応接室。どこにも誰もいなかった。
彼らはエントランスの階段から上にあがろうとしたが、先頭者が十数段のぼったところで、腐った足元が抜けてしまい、諦めた。こんなところに誰かいるわけがない、皆でそう判断した。
恐らく、呻き声はどこか別の場所から聞こえてきたのだろう。あるいは、社会の混乱によって、集団ヒステリーが引き起こされているのかもしれない。誰もが幻聴を聞いていたのだ。きっとそうに違いない。大体、怪奇現象というのは、多くがそのようなものなのではなかろうか? 調査団一行は恐怖心と馬鹿馬鹿しさが一体となった頭で、以上のような結論を導いた。
門をくぐって外に出たとき、しんがりの一人が後ろを何気なく振り向いた。彼は前を向いて叫んだ。おい、見ろ。館の窓、二階だ……。皆は振り返った。窓を見る。どの窓も閉まっている。ほとんど割れている所もある。しかし何も異常なことはなかった。何かあったのか? 誰かがしんがりに訊ねる。見たんだ、屋敷中に灯りがついていて、二階の窓から、少女がこっちを見ていた……。笑っていたんじゃないかな。
笑ったのは一行だった。この霧のせいで、いよいよおかしくなったか。これはますます、錯覚だということが確かになってきたぞ。おお、怖い……。
調査団の話は瞬く間に噂として広まった。この怪談は始まりのように、終わりもまた速やかだった。
それきり館に近づくものもいなくなった。皆、内心はなんとなく不気味に思っていたのである。
編集長を失った出版社では、相変わらず涙ぐましい取材の試みが続けられていた。そこはまさに戦場だった。しかし敗色濃厚、誰もが沈んだ表情をしている。とにかく、いま起こっていることを大雑把に、ざっくりと伝えるだけで精一杯だった。実際はそれすらもおぼつかず、筆者の想像、はっきり言えばでっち上げで記事を盛ることも当たり前のように行われていた。しかしそれが明るみに出ることはなさそうだった。現実ではそれよりも驚くべき事件ばかり、日常茶飯に起こるのだから……。
ある日、慌てて帰社してきた若い男が言った。小松さんが大変です。誰も驚かなかった。こっちだって大変だ。それに、あいつはいつだって大変そうにしているじゃないか……問題ない。青年は首を振った。違うんです。小松さんは誘拐されました。誰かが青年の方を見た。誘拐? まさか、またか?……いったい誰がそんなことをしたんだ?
青年の話はこうだった。
僕は取材のために小松さんと出ていました。市民公園の近くに来た時、小松さんは何かに気づいて、唐突に息を荒くし始めました。その視線の先には、あの、なんていうんですか、あの土台みたいの。そこで青年は社員たちに聞いた。ああ、あれね、わかるよ、なんだっけ……。首を傾げる。まあいいや、続けますね……とにかく、あれです。あれの前に、男が一人立っていました。見たこともない男です。遠目に見ても、なんだか恐い感じがしました。小松さんがその人のところまで小走りに行くと、男は何か言いました。小松さんは必死に頭を下げていました。二人はしばらく何事か話し込んでいましたが、男が小松さんの肩をぽんと叩くと、彼はびくりと震えて、僕の方まで歩いてきました。そうして言いました、申し訳ない、ちょっと用があるから、しばらくいなくなるよ。彼は青い顔をしていました。僕はびっくりして、どこへ行くんですか? あの人は誰です? と聞きました。彼は少し考えた後、場所は言えない。他の人には、キヤスシロウさんに用があると言っておいてくれないか。……そう言って彼は、いつの間にか近くに停まっていた黒い車の方に、しずしずと歩いていきました。車の前のドアが開いて、黒服の男が出てきました。そして小松さんに一礼すると、後ろの扉を開けました。その時ちらっと、例の男が乗っているのが見えました。僕はその人と目が合ったような気がしました。とても冷たい眼でした。あれは普通の人間ではありません……いまでもぞっとします。
青年の話を聞いて、みな黙ってしまった。
キヤスシロウって誰だ? 一人が口を開いた。途端に社内はざわつきだした。知ってます、と女の声。たしかその人、私立探偵です。といっても、開業したてみたいだけど……。とにかく、警察に連絡だ。誰かが言う。誰かがそれに答えて、今のご時世、警察がまともに取り合ってくれるかな? 編集長とかAさんの時だって駄目だったし……。もちろん、あの人たちの場合、誘拐かわからないけど……犯人からの電話もないし。
結局、いちおう連絡はすることになった。今回は連れ去った人物の名前がわかっているし、その顔を青年がしっかり覚えている。それに、温厚だが平凡な社員である小松まで、いきなり連れ去られてしまったということは、誰しもが同じ目に遭う可能性がある、ということを意味する……。
夏のうだるような暑さのなか、霧の中で、次々と奇妙な事件が起こっていた。しかしだれ一人として、それらの事件の糸を手繰り寄せて、一つにすることはできていなかった、皆そうすることを望んでいたにもかかわらず。
やがて霧はすべてを飲み込むだろう。そして人々から生気をすいとり、窒息させるだろう。かつての秩序を失った世界は、いまや悪夢に蝕まれつつあった。
この様相を見て、誰が笑っているというのだろうか?




