*
神の家を出た二人の男は、何処かへと速足で向かっていた。通りをゆく人々の、誰も彼らに気づかないようであった(しいて言うなら、某名家の大きな邸宅の、よく訓練された番犬が二三匹、怪しげな臭いを嗅ぎつけて、彼らに対して低い唸り声を上げたくらいのものだ)。二人はどこか不服そうな、それでいてなんとなく気のぬけたような表情を浮かべて歩いていた。
「いやしくも、小説を書いて、生計を立てようだなんて、お下劣だ!……そうは思わないかな、盥屋さん」不意に、宮田が吐き捨てるように言った。「神たるものが、紙によってご飯を食べているだなんて、どうも、気にくわないな。まあ、だからこそ、気まぐれに、おれたちが生み出されたんだがね!」軽口と悪態をつく時こそ、この男がもっとも活き生きと見える瞬間だった。
盥屋は相変わらず煙草をふかしながら、頷いた。
「残念ながら、完全に同意せざるをえないね、その意見には。少なくとも、売文業なんて、神のやる仕事じゃない。あまりにも卑劣で、低劣で、愚劣だよ。まあ、それをいうなら、君も、詩の一つか二つ、書いていたっけ……前にちらっと拝見したような気がするな」
そう言ってどこか蔑むような目で宮田を見やった。
「そんなことより」
宮田は突然気が付いたことのようにしゃべり始めた。
「君は煙草をのまないのではなかったかい? おれは確かにそう聞いた気がするな。それが、こっちの世界に来て(まあ、もはやこっちもあっちもあったもんじゃないがね、実際!)いきなりのむなんて、一体どういう了見だい?」
「それはね、神がどんな反応をするか気になったのさ。我々はもはや自由だということを、彼に教えたかったんですよ。神様も、たいそう驚いていたな、ああ、セイセイする!」
盥屋は愉快げに笑った。
「セイセイする?……すると、君は、神が嫌いなのか? あんなに神を求めていたのに? 今、『まさに約束の時は果たされた』んだぜ? へへへ、まったく天邪鬼だね、君も」
「まあ、嫌い、というより、憎し、の感情だな、これは。僕はね、我々を創造した神が、あんなちっぽけな自我しか持たない、我々並の、いや、ことによると我々以下の存在だという現実が、ゆるせないのですよ。こんなことがあっていいのだろうか? 現実に」
「まあ、こりゃあ驚いた! 詭弁家の君にも、許せないことがあるとはね! いや、思ったより、おれたちは気が合いそうだぜ……神、か! この上なくうっとうしくて、されど求めずにいられぬものよ! あれほど悩まされた至高の存在に、ついに、拝謁できたんだものなあ……へっ、しかし、まあ、君の失望も当然だよ、盥屋! 彼の住んでいるのは大理石の宮殿ではなくて、本棚に囲まれた(それも下らない「文学書」ばっかりの!)、俗悪なる書斎なんだし、それに、彼は信者の喜捨じゃあなくて、売文業で糊口をしのいでいるときた。おまけに、せっかく遠くから会いにやってきたおれたちかわいい被造物を見て、あのやろうは、喜ぶどころか、怖がって口もきけないありさまだったんだからな」
宮田の哄笑があたりに響いた。
「神は、自分の生み出した単なるフィクションの産物を(だって、実際のところ我々はそうじゃないか?)、怖がっておられるのか。寂しいことだ、まったく。愚劣だ、愚劣!」
盥屋も笑い声をあげた。乾いた、陰気な笑い声だった。電柱の上で鴉が鳴いた。
「盥屋、それはちょっと違うぜ。おれたちはもう、血と肉と骨を持った、実体のある存在なんだからな……そういう意味では、神が驚くのも無理はないさ」
と、宮田はどこか感慨深げに言った。盥屋も同じような顔をした。それきり二人は黙った。
二人の男は並んでいくつもの道をあゆんだ。いくつかの林を通り抜け、いくつかの川を渡った。そのあいだにも彼ら……主に宮田は神を罵倒し、侮辱の言葉を吐いていた。いわく、詐欺師。売文屋。アンポンタンのスットコドッコイ……。
やがて、なんとも説明のつかない景色の場所に出た。そこには荒々しいデッサンのような、もしくは一種の抽象表現のような風景が広がっていた。眺める者の心情で、その印象はまったく変わっていくのであった。怒りの赤。悲しみの青。喜びの黄。二人にそれはどのように見えていたのか? それはどうにも知れない……。ここがいわゆる「現実とフィクションの境目」なのだった。
小屋がようやく見えてきた。この物語の冒頭で二人が対話していた、あの建物である。小屋の外観は粗末なものであった。一見、プレハブ小屋のようであり、木でできているようにも見える。とにかく、ひどくあいまいで、なにか急ごしらえで作ったような趣があった。それがこの異様な風景の中に、輪をかけて異様な雰囲気を醸し出していた。
「やっと着いた。なんだか、帰り道の方が長く感じたな。少々疲れたよ」盥屋が呟く。
「なにか、気のきいた曲が聴きたいな。盥屋、なにかないかい」宮田が言った。
「ジムノペディなんかいいのではないかい」
「知らないな。音楽にはうとくてね! 誰が作曲したんだ?」
「サティという人間さ……」
「へえ。偉人かい?」
「変人だよ」
「それならおれにぴったりだな! きっと部屋にレコードがあるだろう、聴いてみるか……」
「それがいい」盥屋はほとんどうわの空で言った。
「あれ、これは一体にどうしたことだろう?」
宮田はドアに手をかけた途端なにかに気づき、口を丸くして小さくつぶやいた。
「どうしたのかね?」盥屋が訊ねた。
「おかしい、鍵をかけておいたはずなんだけどな。開いているよ!」
「そうかい、ならひょっとして、泥棒でも這入ったのかな?……違うな、おおかた、君が鍵を閉めたつもりになっていただけだろうよ、宮田くん。気をつけたまえ」
「いや、そんなはずはないな。だって、おれがこう見えてけっこう用心深いキャラだということは、きみもよく知っているだろう? そんな『凡ミス』を犯すはずないぜ! あ、信用してないな?……」
宮田はそういいながら中に入った。そして口をつぐんだ。
室内は滅茶滅茶に荒らされていた。椅子も机もあらぬ方向に投げ出されている。観葉植物の鉢も叩き割られていた。壁にはひっかき傷のようなものまである。宮田の足になにかが当たった。床に転がった年代物のワインボトルだった。よかった、割れてないぜ! 一杯やるか? というのんきな宮田の誘いを、盥屋は手を振って断った。
二人は室内を見分し始めた。
しばらくして、盥屋は静かに言った。
「……本当に泥棒が這入ってきたようだね。それに、ただの泥棒でもなさそうだ。これはいけない、どうにも、荒々しいね」
「無い」
と宮田も静かに言った。どうしたことか声は震え、顔は蒼ざめている。
「無いって、何が?」
「砂時計が無い」
「砂時計?……ああ、あの砂時計か。あれはおそらく値打ちものだものな。君が気にするのも無理はない……まあ、こんなに散らかっているんだ、なにかの拍子に落ちて転がって、隅の方に隠れているのかも」
「盥屋、ここはおれの隠れ家だぜ、どこに何があるかくらいすぐにわかる。砂時計は、この家のどこにもない……侵入者は、おれのあの砂時計を狙って盗ったんだ」
「ということは、この場所をしっていて、なおかつ、ここに何があるか知っている誰かが、君の大事な砂時計を……」盥屋はぼんやりと独りごちた。
盥屋と宮田は顔を見合わせた。
しばしの沈黙。
「神の奴だ!」
宮田は怒鳴った――その顔は興奮で真っ赤に染まり、瞳は憤怒に燃えている。




