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えらい神様、よい天使、わるい悪魔。
子供の頃は、この世界に様々な神秘を感じていたものだが、今になって思うと、神秘などというものはこの世に存在しないのかもしれない。子供の頃感じた神秘とは、ただ認識の誤謬から生じたものだったのではないか? 未熟な、無垢な魂の見せる幻。永遠に美しい、幼き日の夢。
――しかし、〝大人〟のそうした認識も、やはり誤謬でしかないのかもしれぬ。なぜなら、大人もまた、神や天使や悪魔を心のどこかで求めている。求めているということは、それがどこかに存在するはずだ!……そうではなかろうか? 存在しないものを求めるほど、大人は愚かではあるまい。それとも、やはり愚かだとして、その愚かさこそが、やはり人間の証だとでもいうのだろうか?
「我々は我々の認識の真偽など、永遠にわからないし、また永久に審議すべきではない。たとえそれが幻想だったとて、現実であったとて、いったい何の意味があろう?」という声がある。
「歴史とは、我々の認識を広めるための、そしてまた、確かめるための闘いの記録であった。それはけして無駄ではなかったし、また忘れてはならない」という声がする。
はたしてどちらが正しいのだろう? おそらくどちらもおおむね正しいことは正しい。そしてやはり、どちらも同じ距離だけ真実から遠ざかっている。もしもどちらか一方を選べと言われたら、私なら、双方を否定するだろう。これは一体全体、重大問題なのだ。そう簡単に決着のつく問題ではない。
〝我々は我々に知られていない〟――ある哲学者が遺した言葉である。我々は我々自身をこそもっとよく認識すべきではないだろうか? たとえそのことによって、永遠に苦しみ続けることになるとしても!
……そこまで思索を拡げたところで、彼は我に返った。考えがまとまらず、うなだれていたら、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。
「まったく、おれらしくもない夢だったな、すこぶる無益で、すこぶる高尚な! なんだって夢なんか見る必要があるんだ? 神? 天使? おまけには、悪魔だって? けっ、笑わせてくれるもんだぜ、ほんとに! おれは神なんて信じちゃいねえし、求めてもいねえ、天使だって、もちろん悪魔すら信じてねえんだからな、まあ、悪魔を求める心はもっているかもしれないがな!」彼はそう独りごちた。
ただ、彼の頭の中には、夢の中で聴いたある一つの言葉が響いていた――『我々は我々に知られていない』。
自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、彼――『宮田望』は、自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
彼はそれほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、彼の全身を不可思議な倦怠が覆っていたのである。
彼のいる部屋は薄暗く、そう広くない、何の変哲もない部屋だ。隅にはからからに乾いた観葉植物が入った白い植木鉢が置かれており、彼はその層をつくりながら中空へ細長く伸び絡み合っている、無数の瀕死の葉に目を向けていた。部屋のもう一方の隅に置かれた、木製で古びてはいるが、案外にしっかりとしているうえ、細かく編み込まれた背と、座と一体になった毛布団が心地いい、ほとんど装飾のない茶色の四脚椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。時たま外の様子もうかがうのだが、窓からはけして美しいとはいえない、ぼんやりとした景色が広がっている。曖昧な輪郭線、子供が絵具で無邪気に塗りたくったかのような色彩……そこには彼の心を楽しませるものがなにひとつない。
《風景、か! このとりとめないもの!》彼は思った。《なんでも、愉快な時とか、落ち込んでいるときとか、風景もその機微にしたがって、恐ろしく変わってしまうそうだな。ふん! いったい、誰がそんな風に決めたというんだ?……ひょっとして、おれのこの陰鬱な精神がお外の風景も暗くしちまっているのかなあ?》
彼は、一人で何時間もそうして不毛な問答を続けているのだ。それが彼の心の慰めであり、また日常的に行っている遊戯の一種らしかった。
宮田が本当に興味をもっているのは、隅の観葉植物の方だった。
《はてさて、これなる植物はいったいなんぞ? おれにはどうしてもこのオモシロい形をしているやつの名前が知りたいんだけどなあ。確か、ここからずっと遠くの方から持ってきたらしいけど! どうしても思い出せないし、知らないな……ちぇっ! 駄目じゃないか、これじゃ……そうそう、大事なのは教養! 本当に大切なものです。ある詩人がこう言ってたっけ、『教養をつければつけるほど……それだけ永遠に近づく、それだけ犬から遠ざかる』、永遠、か! 悪くない。でも犬なんてごめんだ! おれだって馬鹿じゃない、なんにせよ一度覚えたら、きっとそう易々とは、いや、二度とは忘れないはず……》彼のとりとめない思考はまたそこでぷッつりと途切れてしまった。そしていきなり大きく貧乏ゆすりをはじめた。無機質な音が部屋の隅々まで響いた。
このあたりで彼、宮田望の外見を素描してみよう。
まず、特徴的なのはその髪型である――子供が消火し損ねて大きくなりすぎた焚火のごとく逆立っており、さらに毛髪の若々しい黒さは深い苦悩の刻まれた皺のある額と対照的で、彼の年齢をいささか計りがたくしている。その額に繁る眉は下のほうがぎざぎざに波打っていて、対になった様はまるで蝙蝠の羽のようである。ぎょろぎょろと油断なく動く目玉、インクを落とした染みのような黒い瞳。鼻はハイヒールの踵のように高く尖っており、これが彼の国籍を推しがたくしている。横長の唇はルージュを塗ったように真っ赤であり(もちろん彼は化粧などするような種類の男ではなかった)、その間から折に触れちらちらと垣間見える歯は意外にも磨き抜かれて輝きさえ放っている。口元や顎に髭もなく、縦長のその輪郭も鑑みれば、十分整った顔と見なすこともできそうだが、よくよく観察してみると、実物というより、我々が頭の中で把握した部分たちが、我々の空想のなかでその髪にしろ、瞳にしろ、唇にしろ、そして歯にしろ、それぞれ妖しく、勝手に主張を始めてしまうので、これは整った顔であるという整った意見が、どうしても肯定できないという、いわく度し難い顔の持ち主であるこの男は、それを知ってか知らでか、自身の顔を最も平凡な種類のそれであると決めつけていた。
彼にとって顔は苦悩や諧謔を閉じ込めている下水の蓋に過ぎなかった。それを開けば、たちまち禍言が飛び出すパンドラの箱であった。
誰かがその体格から彼の職業を類推するとしたら、おそらくある程度、もしくは相当の肉体的な労働を必要とするものである、と考えるだろう。そう断定できる根拠が彼の身体にはあった。肩幅はやや広く、胸板は厚い(彼のすこし濁ってはいるがおおむね聞き取りやすいバリトンは、この堅固なゆるぎない構造からつくり出されるのらしかった)。彼が裸体を人前で見せることは決してないが、もしもそのようにしたならば、上等な筋肉質の肉体を認められよう。長い手足は鞭のようにしなやかで(先ほどまで、この鞭をだらしなくぶらぶらと揺らしながら熟睡していたのであった)、太い指は掴んだものをけして放しそうにない。その指はいま、なにかを求めるように執拗にうごめいていた。
少々着古した黒い上着に紫色のネクタイ、膝のあたりが擦れて色褪せている黒ズボン姿のこの男は、そういった服装や履いている革靴からすると一見、平凡なサラリーマンのようにも思われるが、それにしては指輪や腕時計の類を一つも身につけていなかった。
彼は人を待っていた。それは家族ではない、友人でもない、ましてや恩師などでは絶対になかった。
人を待つということがこれほど悩ましいものであるということに、宮田は、ようやく、初めて気づかされたのであった。自らの〝時間〟を、他者の〝時間〟に内包せねばならぬとは! それは横暴で傲慢で不器用なこの男にとって、全くの苦痛であった。
机の上には砂時計が置かれている。砂時計、時を流動的に測る装置……。
砂時計が時を計る唯一の手段だとしたら、世界はなんと美しいものであろう。砂は零れ落ちて、その一つぶ一つぶが、世界を分割する。一つぶ一つぶに、分割された世界が刻印されている。砂時計こそ、刹那をもっとも純粋に保つ戒律である。
世界が果てしなく分割され、また、それらが余さず砂粒に刻印されたかのように思われる、ながいながい時間がたち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせおれしかいないさ、入りたまえ」
宮田は扉に向いぶっきらぼうに言った。
丁寧に扉を開けて入ってきたのは、背が高く、多少痩せた(しかし決して病的とは言えない)、物静かな感じのする男だった。
さて、こういった種類の人物をどのように形容するべきだろうか? 確かにそこに存在しているのに、妙に実体感覚のない、幽霊のような人物を――彼は大きめの黒い山高帽を深く被っており、一本の頭髪も帽子の縁からのぞいていなかった。眉毛はとても細く、怜悧な鋭い眼をしている。鼻は宮田よりも長くすっきりと伸びており、小さな唇は少し歪な形で、血の気がなかった。話す時もほとんど歯を見せず、つるつるとした白い肌が生気に乏しい(しかしくりかえすが、決して病的と言えるほどではなかったのである)。尖った輪郭は知性的な印象を彼にもたらしたが、むしろ彼の知性が凝固してこのような外見を形作ったのではないかと錯覚させるほど、その顔は用途の知れぬ人形のような、作り物めいた完成品だった。
しかし、たとえば彼の心に、他者に対する愛情があったとして、愛された恋人は果たして彼の表情の一つ一つを愛するだろうか? 愛せるだろうか?……もしも彼が美しいとすれば、彼の美しさには、「寛容」という、誰からも愛される人間の持つ最高の美徳が、ぽっかり欠落してしまっているのかもしれなかった。
つまり、彼にはなにか魅力があるが、どこか愛敬がなかった。そもそも、彼は初めからそんなもの必要としていなかったのだ、といわれてしまえばそれまでであるが……。
宮田は男の前に立った。こうして向き合い並んだ彼らは、はたから見ても十分に釣り合った外見をしていた。この様子を見て、二人が血を分けた兄弟であると思う者もいるだろう。もっとも、その場合、どちらが兄でどちらが弟かの判別はつけ難いだろうが。と同時に、なにか絶対に相容れない、お互いにお互いがその部分だけはどうしても受け入れがたい、そんな要素をもっていることも、二人の醸す雰囲気からどことなくうかがい知れるのだった。
「やあ、すまないね。待たせてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、おれをいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧におれに詫びたことだよ。なあ! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」と呻った。
盥屋と呼ばれた相手のその男――珍しいことに、それが名字らしい――は、微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出すやつがどこにいるんだい。まったく、君ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「そう、それが問題なのだよ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといひどくチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい。確かに、自分の――ごく小さな範囲でだが――エゴイズムを自覚しているのであれば、どんな天邪鬼であっても、最後には救済されるはずさ。なぜなら、世界はやがて、微小なエゴイズムなど問題にならぬくらいの、巨大なエゴイズムによって支配されるのだから。神がいるなら、それが神に違いない。圧倒的な自我の塊。それこそが唯一、私がこの世界の結果として望むものだ。愚かな宗教家やら哲学者やらは私の考えを穢れた舌で侮辱するであろうが、そんなものは犬の唾だ。なんら意味などない」
「ほら、ほら、はじまったよ、例の弁舌が!」
宮田はうれしげにその場で跳ねた。
「まったく、君の舌こそ穢れているよ、盥屋。いきなり神を侮辱したかと思えば、次にはあらゆる宗教家やら哲学者やらを侮辱するんだから! それもほとんど意味のないおしゃべりでね! おれが天邪鬼なら、君は詭弁家だぜ。ほんの小さなおれの告白を、あっという間に神への冒涜のだしにつかうんだから! まあ、おれの先ほどの告白の中に若干、神への呪いが含まれていることは、否定しないがね」
宮田はのんきに邪悪な笑みを浮かべた。
「つまり私と君とのつながりはこうなんだ」
盥屋は人差し指を立てながら(このとき、既に二人は向かい合って椅子に座っていた)、
「自我、自我、自我、このけったいな重荷! 重荷なのに、これをどこかに捨てられない私たち。神、神、神、この浅ましき幻惑! 幻惑なれど、なぜか心は求めてやまぬ。これを如何に解決すべきか? 肯定的解決がなければ、否定的解決もまたあり得ない。ここまでは二人とも一緒なんだ、そうじゃないかい?」彼は、せっかく高く積み上げたトランプのピラミッドが、無残にも崩壊する様子を眺めているかのような表情をしながら、そう述べた。
宮田はうなずいた。目は盥屋のほうを見ていなかった。窓の外を見ていた。遠く遠く広がる風景。認識しきれない情報量。すこぶる不快で、すこぶる美しい自然……盥屋の声が聞こえてくる。
「だけどここからが違う。私は他者としての神を肯定する。絶対的な他者としての。つまり私たちのちっぽけな自我など超越してしまうような巨大な、緻密な自我。集合的なものであれ、孤高のものであれ、それは確かに顕現する。歴史の最後のページに」
盥屋は熱っぽい口調で語る。しかしその顔を見ても、人の眼にはあまり昂奮しているようには感じられないところが、彼の性質らしかった。彼は明らかに変人と見做されるような口調で、常軌を逸したことを話している。だが彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。
「ところが宮田、君は違う。他者としての神を許せない。なにがそうさせる?『ごく狭い範囲での君のエゴイズム』がそうさせる。神を信じられない。許せない。だが自我はある。この自我は誰から与えられたもの? 親? 友人? それともやっぱり神? いや、違う、と君は思っている」盥屋は宮田の横顔をまじまじと見た。
「自我を与えたのは己だ。君は、自分が神だと思っている」
「おれが神だと思っているって? 自分のことを? それは……」
宮田は盥屋のほうを向いた。
「まるで面白くないな」
「ははは、面白くないに決まっているさ! 真相とは本人にとって面白くないものだ。わからないかね? 君は認めたくないだろうが、君みたいなタイプの人間は、えてして自分のことを超越者だと思っているのさ」
「ちょっとまった、おれみたいなタイプの人間は、だって?」
宮田は目玉を蛙のようにギョロリと動かした。
「そうさ、わからないかね? 君はまあ、いってみれば、そういうタイプの人間の、わかりやすいモデルなんだな。自我をぶくぶく肥大させて、神をあっさり裏切り、ついにどす黒い権力への意志を芽生えさせたところの」
盥屋はつづける。
「君はある意味ではありふれた人間だ。平凡な人間だ、ただしうまく見つけられないんだな、なかなか。こうした人間は脆いからね。……だが君は驚くほど図太い。そういう意味では、君みたいな人間は、ロシアか、アフリカあたりに一人、ことによったら二人いるかいないかの存在だよ」
盥屋が宮田を称賛しているのか、嘲弄しているのか、それとももっと込み入った企みのためなのか――たとえば、彼を何かに向かわせるために焚きつけているのか――それは判別し難かった。
「ロシアか、アフリカに一人や二人、だって? こいつは面白いな、のむか?」
宮田は懐から煙草を取り出し、盥屋に勧めた。
「いや、けっこう」
「おれものまない」
宮田は煙草をしまった。
「要するに君は、荒々しい図々しさと、繊細な思想とを併せ持った、変人なんだよ」
盥屋はそう言って笑うと、奇妙な表情をしている宮田を鋭く一瞥し、それから部屋をきょろきょろと見回した。
「失礼、時計は無いのかな?」
「そこに」
宮田は机の上の砂時計を指さした。それが大理石でできている、ごく精緻なものであることは、盥屋にもすぐに理解することができた。
「ほうほう、これは、なかなかいいものだね。……いやいや、そうではなくて、普通の時計はないのかね?」
「ああ、そういうのは嫌いなんでね、置いてない」
宮田は窓の外を見つめながらつぶやいた。
「そうか」
少し驚いたような顔をしたあと、盥屋はすぐに紳士的な微笑を見せた。
『それからは部屋を沈黙が支配したのである。』
……ここまで入力して、キーボードを打つ手が止まる。
なんだか、この小説は、もうこれ以上続ける必要はないのではないか? という気がしたからだ。物語が、もう、なんとなく落ち着くところに落ち着いたような感じがする。それに、登場人物である二人組の男が繰り広げる神やら自我やらの談義に、我ながら、付き合いきれなくなっていたのだ。神? それは君たちをつくったこの私ではないのか。自我? そんなもの君たちにはない。君たちのいる世界も、外面も、内面さえ、私の手によるものなのだから……。
よし、もうやめよう。この小説はここで終了。残念だが、打ち切りだ。もう、次の作品にとりかかろう……次はもっといい作品を……お、地震かな? 今、少し揺れたぞ。本棚から落ちて来やしないかな?
高い本棚に囲まれてはいるが、せせこましい感じはなく、むしろゆったりとした余裕が感じられる書斎。住人はマメな性格なのか、部屋は極めて清潔に保たれている。北側には大きな机があって、その上に一台のパソコンが置かれている。その前には一人の小説家が座っていた。
その人物の名前を『A』という。まぎれもない、この小説の主人公である。
それでは、彼をどのように素描するべきだろうか?
これといって特徴のない男である――かといって影が薄いということもない。何らかの印象は人に与える人物なのだが……いかんせんそれが「名状しがたい」のだ。
といっても不気味な印象でもなく、かといって底抜けに愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、理髪店に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、くりっとした目玉、そこそこ聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼が先ほど書いていた小説……その中の登場人物たちなどに比べると、彼が虚構の人物ではなく、現実の存在だとということを鑑みても、やはりあまりにも目を引く魅力のようなところがないし、また「あまりにも平凡すぎて人の目をかわすことができる」ほどには個性に欠けていないところが、彼の最大の不幸かもしれなかった。
たとえば、鷹揚で社交的な人々からは「平凡人」扱いをされ、逆に目ざとく陰湿な連中からは「カモ」にされやすい、といったちょっとした悲劇も彼の風貌からは起こり得た。
もちろん、そうではない可能性、彼にとって幸福な結果をもたらす可能性もなくはなかったが、(これは後で詳しく述べることだが)彼のこれまでの半生は全体として引算の方が多かったとも言えた。
そしてその『小説家A』――いや、彼のことは、今のところ、ある都合上こう呼ぼう、〝神〟と――は大きく伸びをし、『ヴェクサシオン』と題したファイルを保存して閉じると、さっそく次の作品の構想を頭の中で練り始めた。脳内で、とりとめなくもつれ合う、形のない想念が、不規則に繋がっては離れる。創作の前は、いつもこのような状態になる。なにかが生まれる予兆、高まる霊感――――と、不意に、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
まったく、誰だ? いい時に。まァ、きっとマネージャーだろう、と神は思った。まずいぞ、まだ碌に原稿もできてない。さて、どう仕事の言い訳をするか? ああ、きっと怒られるだろうなあ……。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ私しかいないさ、入りたまえ」
宮田が扉を開けてぶっきらぼうに入ってきた。
次に入ってきたのは、背が高く、多少痩せた(しかし決して病的とは言えない)、物静かな感じのする男だった。
「やあ、すまないね。待たしてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、神をいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧に神に詫びたことだよ。君! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」
盥屋は微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出す神がどこにいるんだい。まったく、神ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「そう、それが問題なのだよ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい――」
「おい、やめろ‼」神は叫んだ。
「やめてくれ。いったい何者なんだ、君たちは? 何が目的で、こんなことをする? そもそもどうやって――とにかく、ここから出て行ってくれ!」
神は、その後も頭が痛い、だとか気が狂いそうだ、というようなことをわめいていた。
その間に宮田と盥屋は顔を突き合わせて何か話し合っていた。そしてふいに盥屋が神のほうを向いて、大げさなそぶりで弁解した。
「おお、神よ、どうかお許しください。我々は、なにもあなたを困らせようと来たわけではない。ちょっと、びっくりさせようと思っただけですよ、あの登場は。我々の精一杯の模倣、なかなか洒落ていたでしょう?」
盥屋はにっこりとほほ笑んだ。
「すると、君たちは、あれか、やはり……」
神は喘ぎながらかろうじて言葉を絞り出した。
「そのとおり。おれたちは、あんたのつくった小説の、『ヴェクサシオン』の中からやってきたのさ。あんたの想像の通りの姿をしているだろう? できれば、もうちょっとハンサムに創って欲しかったな」
宮田は邪悪な微笑を見せた。
「まったく、何回考えても難解ですな、そのタイトルは。もっとキャッチ―でポップな題名は思いつかなかったのですか? 私ならもっとうまいタイトルをつけたな。そうだな……『失われた神をもとめて』なんてどうだろうか?」
「まったく、大した詭弁家だよ、君は! オリジナリティーあふれる、とてもいいタイトルじゃないか! そんなセンスのいいタイトル、フランス人だって思いつかないぜ!」
宮田がゲタゲタ笑い出した。
これは幻覚に違いない。狂っている。何もかもが、狂っている。おかしい。なぜだ。何が原因だ。そうだ、あの小説だ。あの小説を書いてからこんな変な幻覚を観だしたんだ。あの小説をどうにかすれば――――
神はすぐさまパソコンの画面を覗き込んだ。先ほどのファイルを開こうとする。……ない! さっき書いたはずの小説がどこにもない。確かにあったはず……。
「そんなところ探したって無駄だよ。第一、おれたちはここにいるじゃないか、こっちをご覧よ」
「神よ、無駄なことです。なぜなら、『ヴェクサシオン』の世界と神のいる世界は一つになってしまったのですから。熱い餅と餅のように、二つの世界は今、完全にくっついてしまったのです」
神は二人を見た。そしてもう一度パソコンのほうに向きなおった。
「のむかい?」
宮田は煙草を懐からとりだし、神に勧めた。
「いや、けっこう」
神はそういってからなにかに気づき、ハッと息をのみこんだ。
「これは私が小説で書いたことだ! くりかえしている」
「いやはやまったく、傑作ですな! これでは、我々の世界と同じじゃあないですか! それは私の台詞でしょう? あろうことか、神が我々の真似をしておられるように見える。ところで、神よ、なぜ宮田は煙草を持っているんです? 彼は「煙草をのまない」んでしょう。どうしてそんな矛盾を我々の世界にもちこんだのですか?」
盥屋が宮田からもらった煙草に火をつけながら言った。どうやって火をつけたか? 神にはよく見えなかったが、何やら煙草の先を指で揉み始めたらすぐに煙がたちあがった。……
「あれは」
神はふるえていた。なんとか言葉をしぼりだす。
「ただ書きたくて、書いたんだ。もしかしたら、なにかの伏線になるかもしれないし。理由なんて、後からいくらでもつけられる」
神は正直に告白した。
「ほう! それは」
盥屋は煙草をふかしながらうれしそうに言った。
「興味深いですな。まさか、根拠のない、単なる思いつきとはね! 宮田、君のその煙草は、なにか重要な意味をもっているのかもしれない……(宮田はおどけて煙草をさも大切そうに懐に隠した)おっと、まだそれはただの煙草さ、価値はこれからわかる、ここにいる神が教えてくださるはずさ」
「そこらへんにしておきたまえって、盥屋」
宮田は陰気な笑みをうかべながら言った。
「神の顔色を見ろ。我らが神は、産みの苦しみに疲れておられる。そりゃそうだ、とんだ難産だったんだものな! くくく! 神よ、あんたはよくやってくれた。本当によくやってくれたよ。あんたは父にして母、恩人にして仇だ。とても借りを返すことなんてできないね! ……今すぐには。だから、待っていてくれ、近いうちに、また会いに来るから。その時は、おれたちも、こっちの世界の礼儀ってものをもうちょっと学んでいるだろうよ!」
「本当だ。少しお疲れのご様子ですね? これは失礼。ならば、そろそろ消えるとしますか」盥屋は微笑を浮かべて言った。「では、ごきげんよう」小さく礼をして、部屋を後にする。
「ごきげんよう!」宮田もそれに続いて出ていく。
ドアを丁寧に開けて、乱暴に閉める音。
二人の悪魔が去った後、神は部屋を見回した、まだ小悪魔でもどこかに潜んでいるような気がしたから、それこそ隅々まで見回した。増築を重ねている本棚には、大量の、様々な本。大聖堂の設計者の手記、探偵小説のペーパーバック、辞書・事典のたぐい……そして、つい最近読み終わった、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、ちょっとだけ読んだ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、まったく全然読んでない、プルーストの『失われた時を求めて』。そういえば、盥屋の野郎、『失われた神を求めて』だって?……くそ、あいつら、ふざけやがって!
神は屈辱の邂逅を思い返して激怒した。
しかし、部屋には、特になにも変わったところはない。それでは、さっきまでのことは、すべて幻だったのか? それとも、誰かの悪質な悪戯? いや、記憶にしっかりと刻まれている、夢じゃないし、あんな奴ら、現実には、ロシアにだってアフリカにだっているはずがない! しかし、信じがたいことに、これはまごうことなき現実だ!……よし。
……神はなにか覚悟を決めた様子で、再びパソコンに向かうのだった……。




