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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第四章

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「だから何回も言ってるでしょう!……私は別の世界から来た小説家で……悪魔に追われていて……でもそれは勘違いで……ついさっき、悪魔の片割れと仲直りしたと思ったら、今度は動物みたいな人たちに、ここに連れてこられた……それだけの話ですよ」神は懸命に何度目かの弁明をしていた。

「なるほど、なるほど? 別の世界から来た……よし、それは信じよう。別の遠い街から来たにしては、あまりにも臭いが違い過ぎる……我々『ヴェクサシオン』の住人と。それに、小説家だって……まあ確かに、その夢みるような瞳は、そう見えなくもない。しかしだね、悪魔に追われていた、そして仲直りした……ウウム、それはなかなか信じがたい……我々には、あなたも悪魔に見えるのだが……そして一等よくわからないのは、我々が動物のように見えてしまうということだ。どこからどう見ても我々は人間じゃないかね? まったく、失礼な話だ……それに、我々がいちばん聞きたいのは、あなたがこのたびの大火事やらなんやらになにか関わっているんじゃないかということだ。いや、どう考えても間違いない、……あくまで白を切るつもりかね?」

 そう詰問したのは、どこからどうみても、少なくとも神の目には、犬にしか見えない男だった。男は疑り深い眼をあわれな小説家に向けている。


 ここは、『ヴェクサシオンの街』にある、自警団の詰め所である。神は一時間ほど前から、狭い取調室のよく軋む椅子に座らされ、机越しに向かい合って座るこの犬男からあれこれと尋問を受けているのである。しかしお互いの主張は食い違い、尋問というよりもただの押し問答に成り果ててしまっていた。

「その大火事やらなんやらですが、私は関係ありません。第一、私はさっきまで宮田という男とあの岩のあたりで話し合ってたんです。この街でなにかコトが起こせるわけがないでしょう!」

「その宮田はいま今どこにいる? 答えられまい。それに、あなたの仲間が指図を受けてコトを起こしたということも考えられる」

「仲間とははぐれましたよ!」

「だから、それが『まねーじゃー』殿だろう? 彼は市長によってこの街に呼び出されて、突如、この街で姿を消した。つまりまだこの街にいる可能性が高い! ……彼がどこに行ったか、あなたならよく知っているはずだ」

「馬鹿馬鹿しい!」神は叫んだ。

 その時、例の狐の隊長がノックもせずに部屋に入ってきた。

 彼は神に対して慇懃にお辞儀をしたあと、彼を見るや急に立ち上がり、気をつけの姿勢をとり始めた犬男に、面と向かってこう言った。

「フンド君、ご苦労。もう尋問は結構じゃ。その方は危険な人物ではない」

「了解いたしました、ストローヒム隊長! それと、彼はやはり別の世界からやってきたようです。市長は嘘をついていました!」犬顔はそう答えて敬礼した。そして角々しい動きで扉の前まで歩くと振り返り、「失礼します!」と言って部屋を出で、扉を閉めた。

「少々頭の固い男でな、そこがむしろ信用できるのだが。窮屈な思いをさせて申し訳ない」ストローヒムと呼ばれた狐顔の男は丁寧に謝った。この男が神を取調室に監禁する命令を出したのだった。

「いえ、こちらこそ、あなた方の役に立つ情報を持ち合わせず、面目ない。……しかしなぜ急に私の身の潔白が証明されたんですか?」と神は訊ねた。

「たった今、火災現場を見に行ったら、何のことはない、実行犯がそこにおったのですよ。飛び回っていた、といった方がより正しいかな」

「実行犯? 飛び回っていた?……いったいどんな奴なんです?」

「あれは、白く美しい羽をもった男、一言でいうなら……天使ですな」

「まさか、天使とは!」神は思った――《私と宮田が対峙しているとき、空で鴉と小競り合いしていた奴じゃないか?》

「さよう。あのような存在は見たことがない。まさか実在するとは。おおかた、貴殿のいた世界にはたくさんいるのでありましょうが」

「とんでもない! 我々の世界でも、本に書いてあったり、夢に見たりするだけです。まさか実在するとは!」

「左様でござるか。……いや、これがなかなかの強者(つわもの)でありましてな! なにせ、()(ゆう)先生と互角にわたり合っておるくらいですからな!」

「烏有先生とは?」

「おや、……そうか。先生をご存じないのも無理はない。烏有先生とは、この世界の守り神のようなもの。ときに人の姿をとり、ときに三つ脚の大鴉の姿をとる、ウタァタの使いじゃ」

「ウタァタ?」

「いかん、いやはや、まさかウタァタも知らぬとは! 失敬、失敬……ウタァタとは、この世界の神、いや、この世界そのもの、といってもよいかな?」

「この世界そのもの?」

「うむ。よく、このように言い表される。『この世界はいままでウタァタであったし、いまウタァタであるし、これからウタァタであろう』とな」

「しかし、たしかこの世界は『ヴェクサシオン』の世界と呼ばれていたような……『ウタァタの世界』ではなく」

「左様、この世のことを、我らは『ヴェクサシオンの世』と呼んでおります。それはつまり、古来からの習わしで、ウタァタに対する捧げものは、ヴェクサシオンであるとされてきたゆえ。それともこういったほうがよいか、『ヴェクサシオンはウタァタへの捧げものに他ならぬ。それはいままで捧げられてきたし、いま捧げられているし、これから捧げられるだろう。ヴェクサシオンは捧げられることによってウタァタと同一の存在となってきたし、なっているし、なるだろう』とな」

「なるほど」とだけ神は言った。

「とにかく、そのような神の、その使いじゃから、烏有先生が天使ごときに負けるはずがありませぬ。拙者の手助けも無用とおもい、まずこちらの誤解をとくことを先決としたわけですな!」

「なるほど」またしても神はそう呟いただけだった。

「なにか考え事ですかな?」狐は眼を細めながら訊ねた。

「いや、……どこかで聞いたことがあるのです……その……烏有先生やら……ウタァタの話やら……しかしどこで聞いたか、だれから聞いたか思い出せない……失礼……この世界に来てから、過去の記憶が曖昧でして……いや、そもそも過去の記憶というものがあったかさえも……」

「時差ボケのようなものですな!」

「おや? ここにも、時差ボケという言葉があるのですか?」

「左様。烏有先生が教えてくださった言葉じゃ。たとえば、遠い距離を『水鏡』で移動するとそうなります」

「水鏡……? ひょっとするとそれは、水辺から他の水辺へと、瞬間移動する技のことではありませんか?」

「ほう、よくご存じで! その技、そちらにもあるのでござるか」

「いえ、そんな技、ありませんよ、ありえません! でも、なぜ私は知っているのだろう……」

「まあ、いまは色々と騒がしいが、それが落ち着いたら、この世界を見て回るのもよかろうて……ちょうど『ヴェクサシオン』も催される時期だしのう」

「ヴェクサシオンですって?」神は思わず大声で訊いた。

「左様、左様、左様!」ストローヒムは威厳をもって答えた。「『周期』の終わり、すなわち始まりに、ウタァタへの捧げものとして『世界』をお供えする、大切な、いや、この世の成り立ちのために必須の儀式でありますな!」

《なんてことだ、私の書いた小説と同じ名を持つ儀式が存在するだなんて!》と神は思い、必死に冷静を取り繕いながら重ねて訊く。「それはいつ行われるんです?」

「『時計』が時を告げる時ですな」

「時計?」

「この世界の中心にあるという、巨大な時計です。その時が来れば、その『時計』が時を告げるのですな。もっとも、今度の『周期』は、少々長すぎるようじゃが……」

《私たちが最初に降り立った場所だ!》神は咄嗟に考えを巡らせた。

「ひょっとして、その時計は……いつも、大地に横たわっているのではありませんか?……まるで眠っているかのように」

「とんでもない! 伝説によると、それはもう立派に、天空にそそり立っているのでござるよ……わが街自慢の鐘塔も比べ物にならないほど、長々と、しっかりと、まっすぐに」


 しかし神はもはや、ストローヒムがうっとりと語り続ける話をほとんど聞いておらず、また真実(あるいは少なくとも神の見た光景)を彼に述べる気にもなれなかった。これまで自分たちが見てきたもの、それが本当のことなのかどうかさえ、おぼつかなかったからである。ただ一つ言えたのは、彼――小説家A――は、この世界のことをかつて知っていたし、いま再び知ったし、これからさらに知るだろうということだった。

 彼にはもうすがるものが無かった。天使でさえ信用ならなかった。

 ウタァタ――彼の心にまだ見ぬこの世界の神が曖昧な像となって表れた。それはあやふやな輪郭をもった、どろどろの塊だった。そこにどこからともなく八咫烏が飛んできて、三つの脚を塊に突き入れた。鴉が足を抜くと、そこに三つの穴があった。次に宮田がやって来て、ぎゅっと握った拳を突き入れ、四つ目の穴ができた。盥屋はそのあとにあらわれて、静かに人差し指で五つ目の穴を作った。走ってきたマネージャーが足を滑らせ、頭から突っ込んで六番目の穴となり、今やAだけがウタァタの前にいた。彼は震えながらそっとウタァタに息を吹きかけた。七つ目の穴が開き、そこには目と耳と鼻と口とをもつウタァタがあった。その顔を見て、Aはあらかじめ予想した驚愕を味わった。

 それは神そのものだった。彼はいつの間にか水面をみつめる少女に変わっていた。「水鏡――」と思う間もなく彼女はどこか遠くに飛ばされてしまった。

 ウタァタだけが残された。だが、それもすぐにまたどろどろとした塊に戻って、あるいは水面に溶け、あるいは蒸発して天に上り、あるいは大地に吸い込まれ消えてしまった。


「……もし、もし! A殿、どうされましたかな?」

 神はストローヒムの言葉で白昼夢から引き戻された。

《ただの夢か?……では、ウタァタもなにもかも幻想だったのか? いや、あるいは……》と考え、

「いえ、なんでもありません、失礼しました!……それで、話はどこまでいきましたっけ?」

「話? それどころではありませんぞ! たった今、彼が重大な知らせを持って来ましてな」と彼はいつの間にかとなりに立っている犬男――フンドと呼ばれていた――の方を向いた。

「ご報告します。烏有先生が辛くも放火魔を退治し、事態は沈静化に向かっております!」

「ということです。A殿、さっそく現場に急ぎましょう」

「……私も行くのですか?」神は微妙な顔をして言った。もうすっかり(心が)疲れていたのである。

「もちろんですとも! 天使の奴めがなにか有益な情報を持っているかもしれませんぞ。それに貴殿を烏有先生に会わせたくもあるからのう」

「わかりました」と言って神は大きなため息をつき、席を立った。


 自警団の詰め所は街の中心から少し外れたところにあるので、神とストローヒム、そしてフンドの三人は自然と周囲の状況を確認することができた。

 街はいまだ混沌とした様相を呈している。人々は右往左往し、あちこちで噂を囁き合っていた。多くの者が恐怖に怯えた目をしている。しかし幸いにも、炎は市街地まで広がらずに済んだようであった。一行はとにかく、依然として煙の立っている方角へ向かう。

「おお、なんと痛ましい!」

 隊長が見上げた先には、黒く焼け焦げ崩壊した鐘塔があった。その鐘は地に落ち、熱で半分溶けかかっていた。

「わが街自慢の鐘塔であったのだが。無念!」と狐男は嘆いた。

 火は役場から鐘塔へ燃え移ったのであって、その惨状たるや凄まじかった。木造だったらしく、建物はほとんど原型をとどめていない。火はほとんど消し止められたようだったが、依然としてそこら中で燻っていた。

 一行はその焼け跡をもっとも近くで眺めている二人の人物の方へ進んでいった。一人は熊のような男だった。そしてもう一人は、頭には少し焦げついた白髪、顔には深い皺が刻まれた老翁だった。悲しげな、愁い深い眼差しで焼け跡を静かに見つめている。

「これはこれは、隊長殿! それに隊員の方々」熊男が一行に気がつき、丁寧に挨拶した。

「うむ、市長どの、無事で何より!……こちらは別世界からやって来た、A殿でござる」と言ってストローヒムは二人に神を紹介した。

「ほう! ひょっとすると、あなたが『先生』ではありませんか?」と熊は笑顔で言った。

「初めまして。しかし、どうしてその呼び名をご存じで?」

「マネージャー君から話は聞いておりますよ」

「マネージャーですって? 彼はどこにいるんです?」

「それがいまだ、行方不明でして。申し訳ない!」

「そうですか……」

 落胆した神に、老人が静かに近づき、軽く会釈をした。神も会釈で返すと、

「初めてお目にかかる、わしはただの名もないじじいじゃ。人からは『烏有先生』と呼ばれておるから、そう名乗っておるがのう」と老人がどこかひょうきんに挨拶した。

「初めまして。……しかし、なんだか初めての気がしませんね! 違う姿の時にお目にかかったような」

「まあ、それは後じゃ。まずは彼に話を聞こうではないか」

 そう言って烏有先生が指し示したのは、縄でぐるぐる巻きにされている例の熾天使だった。一行はいままで石のように黙っていた彼に気づかなかったので、多少驚いた。

「やい! 何のつもりでかような乱暴狼藉の数々、……ただでは済まさんぞ!」と啖呵を切ったのは隊長である。

 天使は薄笑いを浮かべただけだった。よく見れば、端正な顔のあちこちに生傷がある。

《間違いない、こいつだ! 宮田と睨み合っていた時に飛んでいた奴……》と神は確信した。

「……誰の差し金で火をつけた? まさか気まぐれに行ったわけではないじゃろう」と静かに訊いたのは、烏有先生だった。

「一人でやったんだ、気まぐれに。面白そうだったからさ……」と天使は呟いた。

「嘘をついていると碌なことにならんぞ」老人はその瞳に、厳しさと優しさの両方を湛えた輝きを見せながら、彼を諭した。

 天使はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げて、

「……名前も知らない奴だ。目的もわからない。ただ、暇と力をもて余していた私に、話を持ち掛けてきたんだ。役場に火をつけて騒ぎを起こせば、面白いことが始まるってね……それが終わった後には、なんでも好き放題できる世界が待っていると」

「それで放火したと?」

「今から思えば、あんなの嘘っぱちに決まってる。誑かされたんだ、くそっ!」といって男は唾を吐いた。

「まて、それならなんで私たちのことを空からうかがっていたんだ?」と神が訊ねた。

「君たちのことをできるだけ監視するようにも言われていたんだ。君や、……宮田とかいったか? あのうるさい男のことをね」

「そいつは――君をそそのかした奴は――私たちのことを知っているのか?」

「よく知っているようだった。私にはあまり教えてくれなかったが。……もういいか? 尋問されるのに慣れてないんだ、なんせ天使だからね。さあ、さっさと牢屋にでも入れてくれ!」

「そうはいかんぞ! 貴様はその前に、百叩きだ! 幸い、死者が出なかったから、それで済ますのだぞ!」とストローヒムが顔を真っ赤にして言った。

「死人なんて出るわけないさ。これでも火の扱いに関してはプロだぞ! 何の恨みもない人間を、焼き殺すなんて、天使の誇りが許さない」と天使は彼なりの矜持を見せたが、その場にいた誰の共感も得られなかった。

「お前のほかにも天使はいるだろう」神は質問した。

 熾天使はにやりと笑った。

「もちろん。たしか、君たちの世界に行ったのは、智天使ケルビムと、力天使パワーあたりか。ケルビムには、欲しがるから、煙草を一本、くれてやったっけ。私たちはそれぞれ独自に、違う思惑をもって行動しているから、彼女らの目的は知らないがね。それに、どうでもいいことだ! 天使なんて、何のためにいるかわからない」

「それは……正義を行うため、では?」神は慎重に答えた。

「……『奴』に言われたよ、その存在理由が、ただ正義を成すためだけの、我々天使というのは、場合によっては悪魔よりタチが悪いのではないか? とね」

 その口上はありきたりな懐疑ではあったが、状況が状況であるから誰もそれに答えようとせず、一同の間に沈黙が訪れた。


 熾天使が自警団の二人に引っ立てられていき、市長が被害を確認しに立ち去ると、後には神と烏有先生だけが残った。

「あなたは何者なんです?」神は単刀直入に訊いた。「それに、ウタァタとは? この世界は一体どうなっているのですか?」

「いくつもの質問、それも難問に答えるのは骨が折れそうだのう」と老人は微笑して言った。「じゃが、そなたの質問は一つにまとめられる、『わしはウタァタの使い、ウタァタとはこの世界、そしてこの世界がどうなっているのかはわしにもわからん』もっとつづめて言えば、『何から何まで、わしにもわからん』」

「その答えを予想していました」神はため息をついた。「そして、同時に期待してもいたのかもしれません! 真実を受け止めきれる心がまえが、まだ私にはないだろうから」

「そうか、そうか……では、こちらからも問わせてもらうぞ」と老人は言った。「おぬし、宮田には……あの男には会ったのじゃな?……盥屋の方ではなく」

「はい、会いました。宮田から聞きましたが、それもあなたのお導きなのですね? おかげで誤解がとけて、悪魔に寝首を掻かれる心配は減りました」と神は感謝の気持ちを表した。

「いや、まだ片割れが残っておるぞ。もっと厄介な方が……」烏有先生は低い声で警告した。

「ああ、あの男……盥屋ですか……彼は宮田よりも理性的で、おそらく話しやすいでしょう。危険なことは無いのではないでしょうか……まあ確かに、何を考えているかわからないところがありますが……」

「それがのう、奴は宮田よりも危険かもしれないのじゃ。よいか、この世界は奴にとってとても都合がいい」老人は変わらず低い声で言う。「この世界では『心』が重要なのだ。自分の心を見つめて、しっかりと錬り上げること……それは盥屋の得意とすることじゃ。まだ完全な形でないにせよ、奴の考えていることは災厄の種となりうる」

「しかし、それなら一体どうすれば? 誰も他人の心の働きを制限することはできません」

「さよう。究極的にはそれは不可能じゃ。心の激流を止めることはできぬし、心の激流に打ち破れない堤防もない……この世界では」

「彼は何を考えているのでしょう?」

「それを知ることは、わしにとっても越権行為じゃ。本人か、この世界の『創造主』でもない限り、それを捉えることはできん。……表に現れるまでは。ただ、おそらくはおぬしにも関係のある事じゃろう。深い、深い関係が……」

 それから、神と烏有先生は長い間向かい合い黙ったまま考え事をしていたが、なにやら呼ぶ声がするのでそちらを見やると、駆け足で市長が二人の方に向かってくるのがわかった。

「烏有先生! Aさん! 大変ですよ!」熊男は真っ青な顔で叫んでいる。

「一体どうしたのじゃ?」老人は大声で訊ねた。

「街はずれの洞窟から、なぜだか汚水が逆流して! 多分、制水弁が壊れたんだ! あるいは壊されたか……とにかくひどいもんです、なんでも飲み込んでいくんだから!」

「街の者は大丈夫かのう?」

「それが、汚水に飲み込まれたまま、戻ってこない者も大勢いるのです! ああ! 炎の次は泥水か! 勘弁してくれ!」

「わしが行こう」烏有先生はそう言うと大きく両手を広げた。するとみるみるうちにその腕に漆黒の羽が生え、顔からは鋭く尖った嘴が生え――あっという間にその姿は巨大な三本脚の大きな老鴉となった。

「私も行きます!」神は老人の突然の変身に驚きつつも、叫んだ。

「いかん! それよりも、ここに居れ! 奴らは、ここにくるはずじゃ」しわがれ声で八咫烏は命じた。

「奴ら?」

「その時が来ればわかる。ぬかるなよ!」

 そう言うと、怪鳥となった烏有先生は力強く翼をはためかせ天に飛び立った。

「ネヴァモア! ネヴァモア!」という鳴き声を響き渡らせながら、遥か彼方へ。

《そういえば》神はそこでやっと気が付いた。《私をこの世界へ呼んだ声に似ている……いや、間違いない! 私は烏有先生の導きでここにやって来たんだ、こうなったら、あの老人の言うことに従おう……》

神は密かに覚悟を決めるのだった。

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