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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第四章

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 ここは『ヴェクサシオンの街』である。

読者は覚えているだろうか、マネージャー君と盥屋は突然の邂逅を果たしたところを。

「少し歩こうか」と盥屋が言った。「ああ、しかし大声は出さないでくれたまえ! 人の注目を浴びてしまうと、少し面倒だから」

 マネージャーが頷いてそれを了承し、二人は人気の少ない路地をゆっくりと歩きだした。

 しばらくの沈黙。不意に、遠くで鐘が鳴りだした。

 ボオオォォォンン……ボオオォォォンン……。

 それはどことなく、不吉で陰鬱な印象を与えるものだった。

「あれはなんだろう?」マネージャーが振り返ろうとすると、

「気にするな。この世界で起こることなど、まったくどうでもいいことさ……この、歪んだ鏡に映った虚像のような世界で、いったい注目すべき何が起ころうというのかね?」と盥屋がそれを制した。

 薄暗く、薄汚い路地である。何者が潜んでいるかわからない建物が並ぶあいだを、二人は歩んだ。そのうちに並びもまばらになり、やがて目の前に現れたのは、なだらかに弧を描く石造りの入り口を持つ、辺りのドブから汚水が流れ込む、腐臭ただよう洞窟だった。

「ここを降りよう……心地よい、(かぐわ)しい香りがする」盥屋が降りよう、といったのは、その洞窟が奥にいくにつれて徐々に下っていく構造になっているのがうかがえたからである。

「ここをですか? なにがいるかわかったもんじゃありませんよ。それに、ひどい臭いだ……」

マネージャーは中指と親指で鼻をつまむしぐさを見せた。

「相手が誰だろうと、どこの馬の骨かわからない我々のほうこそが、怖がられるとおもうがね。それに、あまりわれわれの話を聞かれたくないのさ……第三者に」盥屋は洞窟の入り口のアーチを見上げながら言った。

「わかりました、わかりましたよ! ここまできたんだ、もうヤケです」マネージャーはぶっきらぼうにそう呟き思った、《僕に自由はないのだろうか?》


 しばらくして、彼らは或るじめじめした小部屋にいた。机が一つ、椅子が数脚、壁際には中にわらをつめた革袋が積んであった。盥屋は粗末な椅子にゆったりと座り、マネージャーは革袋の上に落ち着かない様子で腰を下ろしていた。革袋の方が入り口に近いのである。この部屋の中では、あの鼻をつくいやな臭いはあまり感じられない。

「ちょうどいい部屋が見つかった。なんという都合のよさ。まったく、神に感謝だ!」盥屋が言った。

「いったい、何に使う部屋なんだろう?」とマネージャー。

「誰かが管理のためにここをつかうことがあるのではないかな」

「管理? なんのです?」

「わからないが、汚水の水質検査でもするのではないかな」

 マネージャーは盥屋が適当に自分をからかっているのに気づき、それ以上質問するのをやめた。

 しばしの沈黙。やがて盥屋が口をひらいた。

「そうだな……君にはいろいろと聞きたいことがあるが……そちらもいろいろ聞きたいことがあるだろう。まずは私が質問に答えよう……なにか、私に聞きたいことはあるかな?」

 マネージャーは少し間をおき、やがて呟いた。「いいんですか?……なんでも?」

「もちろん」

「それならお聞きしますが、……どうして僕たちをつけ狙うんです? それになぜあちこちで乱暴狼藉をはたらいているんですか?……それが本当だとしたら、ですが」マネージャーは恐る恐る訊ねた。

 盥屋はしばらく机の表面の木目を凝視していたが、やがて青年の方を向きこの上もなくやさしい声で囁くには、

「私たちの間には大きな誤解がある。大きな断絶が、大きな矛盾が。……しかしどちらか一方が誤っている、どちらか一方が悪いなどという認識は、それこそ危険なものではなかろうか? いや、言ってしまおう、そんなものは猫の額ほどの価値もない、聡明な私たち二人の間に横たわる隙などありはしない。マネージャー君(そう呼ばせてもらうよ)、どうかその質問を君から引き出してしまった私の過失を許してほしい。愚かなのは君ではなく、私の方なのだ……もっと愚かしいのは、この状況(シチュエーション)だ。信じてもらえないかもしれないが、私はこう見えて、半分、もしくはそれ以上、人間ではないのだ……私や、私の相棒の宮田は、君の担当しているあの『先生』の作り出した、虚構(フィクション)に過ぎないのだ。……わかってもらえるかね? それとも私の気が狂っていると思うかね?」そして蜘蛛の脚のように細く長い両の手の指を虚空にざわめかせた。

「いえ、信じがたいことですが、信じます。先生とあなた、二人が同時に、それも同じ狂い方をしているなんてもっと信じがたいことですから。……それと、宮田という人も」青年は断言した。

「君ならそう言ってくれると」盥屋は両の手を組み合わせて祈るような格好になり、「信じていたよ!」

「でも、あなたの言い方だと、僕はもうこれ以上の質問をしづらいですね」

「それは、私のことを(よこしま)な悪魔だと思っているということかい?」

「それはまた答えづらい質問ですね」マネージャーは苦笑いした。

「君はなんて賢いんだろう! でも私は悪いことを実際にする類の悪者ではないよ、まあ、誰も人の頭の中はのぞけないがね!」

「では、頭の中で考えた悪事を、宮田という人にやらせているのですか?」

「鋭い質問だ。もしそうだとして、それは別に卑劣なことだと思わないが、残念ながら、違う。宮田は案外にみどころのあるやつでね! 駒にして使うような類の男ではない! おかげさまで、代わりにうごく手足を持たない私はただの妄想者さ!」

「……僕は現実に戻りたいだけなんです。あなた方が何者であろうが、何を考えていようが、関係ないことです。でも、……」そこで、マネージャーはぷっとふきだした。「盥屋さん、あなたのおっしゃる通り、これはおかしな状況(シチュエーション)ですね! だって、ここにいるのは僕たち二人だけで、肝心の二人はどこかに行ってしまったんですよ? 先生と、宮田という人は。いったい、僕たち二人で、なにを話せばいいんです?……少し話しただけでわかりましたよ、先生と僕に興味があって、用があるのは、宮田って人の方ですね?」

「なぜそう思う?」盥屋はまた木目をまじまじと見つめている。

「あなたがまったく僕に関心がないのがわかるからですよ!」

「いや、そんなことは無いのではないかな?」

「なら、僕を人質にして先生を脅す気ですか?」

「脅す? そんな予定はないよ。……」そこで今度は盥屋が微笑して、「今のところはね。だけど君は面白い。……思った以上に面白いじゃないか? これほど私に面白いと思わせるということは、さては……君はなにか大きな秘密をもっているね? そうに違いない」

「秘密? なんのことです?」青年は汚い壁に寄り掛かった。

「君さえ気づいていない秘密が君にはあるのだよ。おそらく、ほとんど荒唐無稽な……すべて秘密とは荒唐無稽なものに他ならぬ、と言えばそれまでだが。……それよりも、君は先生のことををどう思っているのかね?」盥屋はマネージャーの方を見て訊ねた。

「先生のことを? どういう意味です?」

「そのままの意味さ。あれはどういう人間だと思う?」

「答えづらいことばかり聞きますね!」青年はやるせなく笑った。「二重に答えづらいことはわかっていただけますか? 第一に、先生という人がなにかこう、とらえどころのない人だし、なにより、あなたにそれを答える必要があるのかどうか……」

「悪魔に人の悪口をしゃべるなかれ、かい?」盥屋は朗らかに笑った。「それでは、先生の悪口を言う気なのかい?」

「誰もそんなことは」マネージャーはつばを飲み込んで続ける、「言ってはいません。でも、あなたを信用しようにも、あなたが信用して欲しいとこれっぽっちも思っちゃいないんだから、どだい無理な話です。そうじゃないですか、盥屋さん?」

「まったくそうとも言える!」悪魔は小さく拍手した。「では、こうしよう、私が宮田という男のことを話すから、君も先生について少し……どうかな、悪い暇つぶしではないだろう?」

 青年は部屋から出ていこうかと思った。しかし盥屋はいまやこちらを見つめていた。それが酷薄な、殺気にあふれた目であったら彼は実際にこのような茶番から退散していたに違いない――それがどこか優しげで、慈悲にあふれた、それでいて、青年を通り越して遥か彼方にあるものを凝視する目でなかったら。

「君は煙草を喫わないのかね?」盥屋が唐突に訊いた。

「喫いません」

「私も喫わない!」

盥屋は愉快そうに言って笑った。

《奇人だ!》とマネージャーは思った。

「さて、いいかな? では、始めよう。お互いに、お互いの相棒を、どう思っているのかを、告白しようじゃないか? なに、単なる興味さ、深い意味があるわけではない……」と、机の上を人差し指でトントンと小突く。

「私から話します」

「そうかい、では、どうぞお先に!」と両掌を青年の方に差し出す。

「……僕は『現実』の信者です」と青年は静かに言う。

「ほう? 現実の信者? ふむふむ……しかし、それをいったらだれでも、そうなのではないのかね?」

「つまり、僕は平凡で常識的な、普通の人間だということです。ありふれた凡人なのです。しかも、それを残念には思っていません。むしろ、これは美徳ではないかと考えています。他でもない現実こそ、我々が大切にしなければならないものなんです。現実をおろそかにしてしまうと、夢を見ることすらできなくなる、というのが僕の持論です」

「なるほど、なるほど? 現実を正しく認識しているからこそ、理想を語ることができるというわけだね? しっかりとした意見だ!……しかし、君の尊敬している先生は、それこそ空想フィクションの世界に生きて、まさにそのおかげで腹を満たしているような人種であるように見えるのだが?」

「そう、問題はそこなのです。先生が(そして、マネージャーの僕が)メシの種にしている小説なんて、どこまでいっても空想譚、おとぎ話、虚構の産物。先生はいい人ですし、尊敬できる方です。でも虚構(フィクション)の力で現実を養っていく、こういう生き方で本当にいいのだろうか、それだけでいいのだろうか? という感じがするのです。そういう考えを僕は隠していますが、きっと先生もそんな僕の心に気付いているでしょう」

「いや、これは痛い!」盥屋は軽く手をたたいて微笑した。「私と宮田なぞ、まさに虚構の産物以外の何者でもないのだから! 考えてみれば、偽りの空想で世の中をだましだまし生きていくということは、正気の沙汰ではない。だが、こうも言えないかね? つまり、虚構や空想や嘘イツワリ、こういったものが存在しなければまた、人は正気でいられないと?」

「……難しいですね。難しい話だし、少しは嘘がなければ、世の中を正気で生きていくのは難しい。でも、僕が言いたいのは、僕らが生きている社会とか、自然を含めた宇宙、そしてまぎれもなく、僕のいる今ここという場所、そういったものを常に大切に心に留めておかないと、僕らはすぐに何が虚構(フィクション)で何が現実(リアル)かということを忘れてしまうんじゃないかということなんです」

「君の意見は凡庸で、ありふれたものだが、ある種正しいし、それにしっかりと『地に足の着いた』ものだ。その点は保証しよう。しかし君はつまり神……いや、先生……が虚構と現実の境目を忘れてしまって、それこそ正気を失ってしまった、だから我々悪魔も本当は……まったく、これっぽっちも存在しない、と言いたいのかな?」

「いいえ、そこまで言ってません! 先生は正気ですし、あなた方も存在します!」青年は首を振った。「ただ、僕は元の世界に帰りたいだけなんです、盥屋さん。わかりますよね? 先生は本当にいい人で、尊敬できる方です。でもだからって心中する気にはなりません! この、『ヴェクサシオン』とか言いましたか、不思議で奇妙な、わけのわからない世界で、いつまでもさまよっているわけにはいかないんです。まるで先生やあなた達悪魔のために創られたようなこんな世界で……終わるわけにはいかない!」

「神や、悪魔たちのために?」盥屋は青年のそのあたりの言葉に反応した。「我々のための世界? なるほど……そうか、そういうこともあり得る……」そうつぶやくと何か考えこみ始めた。

「すみません、僕自身の話になってしまいましたね」しばらくの沈黙の後、マネージャーは謝った。

 盥屋はそこでやっと青年に気づいたような顔をして、「いや、いや、いや! 良い話が聴けたよ。非常に有意義な話が! つまり、君は元の世界に戻りたいのだね? 先生を置き去りにしてまでも? いや、何も言わなくていい、普通に、『現実的に』考えれば、そうなる……よくわかるよ。では、次は私が話す番だね。いいかな?」

「どうぞ」と青年は不安げに言った。

「なにから話そうか……そういえば、さっき、宇宙という言葉が出てきたね? それなら、そこから話そうか! 君は不思議に思ったことは無いかね、その……われわれを包み込んでいる、この宇宙について?」と盥屋は切り出した。

「宇宙ですか?……漠然とした質問ですが、まあ、なんとなくは」

「漠然とした答えをどうもありがとう。そう、宇宙。宇宙はスポンジのようになんでも吸収して、それら吸い込んだものでいっぱいのはずなのに、同時に巨大で空虚なカラッポでもある。……これを不思議に思ったことはないかね?」

「まあ、確かに、考えてみれば」

「矛盾を感じないかね?」

「矛盾?」

「矛盾に他ならないではないか! 腹いっぱいに食っているくせに、同時にいつも腹ペコにしている……そんな化け物が我々の生きている空間の本質だ。そして我々は化け物に孕まれた小さな化け物だ。いいかね? 宇宙が埒外の化け物であると同時に、我々もまた想定外の化け物なのだ。我々は巨大な空虚の中、なぜだか存在している。意味もなく! つまり、我々はやがて無に還る運命にある」その口調は徐々に熱を帯びてきた。

「ムニカエル?」青年は恐る恐る訊ねた。

「そう、無に還る。いつか人がみな希望を失って、神にすがる時がおとずれる、しかしその時かれらが願うのは人類の救済ではなく、その滅亡だ。人類がみな滅亡を願えば、それは必ずや成就されるだろう!……もちろん、それが一秒後のことなのか、一億年後の話なのかは知らないがね」男は妙に響く声で宣言した。

《やっぱり奇人だ!》と思いながら、さらに訊ねる、「神が? それはどんな神なんですか?」

「宮田のような男こそ、神を復活させることのできる存在かもしれない」盥屋は質問に直接答えることを避けた。

「宮田という人には会ったことがないのでなんとも言えませんが、きっと、相当変わった、あなたより変わった方なんでしょうね」

「ああ、宮田のふるまいは、正直、私にさえひどく滑稽に見える。しかしそれはさして重要なことではなくて、彼がああ見えて、常に極めてまじめに考え、まじめに行動しているのだということが重要なのだよ。……そこには彼なりの奇妙な情熱がある」盥屋は青年の皮肉に対して「まじめな」表情で答えた。

「もし、その宮田さんが神を蘇らせたとして、いったいなぜ人間は滅びなければならないんですか? 人の生きる意味はたくさんあって、それぞれがかけがえのないものなんじゃないですか?」青年は真剣に抗弁した。

「よく聞く意見だね。君は優等生だ! 確かに、生きる意味は様々だ。しかし、その多くが、実は単なる惰性にすぎない」

《間違いなく奇人だ!》そう思いつつも青年はさらに問わずにいられなくなってきた。僕の信じる現実が、惰性にすぎないだって? そんなことがありえるのか?

「あなたは何を信じているのですか? 宇宙を? 神を? それとも自分を?」

「信じてはいないよ、何も。何も信じられないのではなく、何も信じるに値しないという自覚。これこそが旧き思想と新たな思想の違いなのだ」

「それは寂しいことではないのですか?」

 突然、盥屋は立ち上がった。両手を広げて、掌を閉じたり開いたりしたあと、胸の前で祈るように両手を握り合わせ、大声でこう叫んだ。

「おお、君の言うとおりだ! すべてを軽蔑し、すべてを信じない、確かにこれは宇宙に対する、神に対する、そして何より自らに対するこの上ない侮辱だ。そんなことを志向してなんの意味があるのか? 私の()く道すがら、様々な人々の心に、癒しがたく深い断絶を生むだけではないのか?……しかし、これは私なりのけじめのつけ方なのだ。ちっぽけな私という存在の、大いなる孤独! それこそがこの世に私が残せるであろう、唯一の置き土産だ。言うなれば、私の思考する、いくつかの問いへの、明確で・調和した・()い加減の答えを見つけるための、大いなる歩み……」


 それから、二人は長いこと黙っていた。盥屋は再び座り、青年は反対に立ち上がって狭い部屋をうろうろと行ったり来たりしていた。やがてマネージャーが口を開いた。

「そろそろ……外に出てみませんか? いつまでもこんなじめじめしたところにいたら、体に毒ですよ。それに、僕らのことを探している人がいると思うんです……」

「それもそうだね。このような薄汚い場所、さっさとおさらばしよう」盥屋はあっさりそう答え、立ち上がった。そしてゆっくりと、だがしっかりとした足どりで、扉の方に歩き出した。

 その時だった。扉を誰かがノックしたのである。


 トン

 トン

 トン   三回。


「誰だろう?」マネージャーはぎょっとして扉を見つめた。

「おお、こんなところに来客とはね! いや、むしろ来客はこちらかもしれないが……」

盥屋は少しのあいだ涼しい目で扉を見つめていたが、

「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ我々二人しかいないさ、入りたまえ」

と慇懃に言った。

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