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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第四章

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 一陣の冷たい風が頬をなでるのを感じて、神は長い眠りから目覚めた。目をこすり、大きなあくびをした後、軽く伸びをする。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

《ああ! なんだか昼夜が逆転してしまったみたいだな》

神は独り考えた。独り?……そういえば、ついさっきまで話していたあの男、宮田の姿はどこにも見えない。《宮田……奴はどこだ? ひょっとして、どこかへ逃げたのか?……しかし、なぜ? 別に、一緒にいたいわけじゃないが、だからといって、奴を一人にしておくと、何をしでかすかわからない……といっても、探す当てなんてどこにもない……まったく! やれやれだな》と、大きなため息を吐く。

 とにもかくにも、寝ているあいだに、なにかが起こった。それだけは疑いようがない。神は疲れた身体(実際には心が疲れていたのだが)を無理に使い、よろよろと岩の上に立って辺りを見回した。

《なんといっても暗いな。何も見えない!》

 月明りも何もない、まったくの暗闇である。黒い絵の具を塗りかさねたような。

 これでは宮田を探しに、あるいはこの世界をさらに探索しに動こうにも、動くことができない。はたしてこの世界はどのような気候なのか、気温は暑くも寒くもないのをさいわいに、彼は再び岩の上に横になった。ばたりと倒れこんだと言った方が正しいかもしれない。なにしろ、この世界でのたび重なる奇妙な冒険の疲れが、まだ完全に癒えたわけではなかったのである。彼はそのまますぐにまどろみはじめた。自然と、頭の中に、とりとめのない想念が広がってゆく。なすすべもなく、そこに身をゆだねる……。

 ああ、疲れている。いま、自分は疲れている……もっとも、疲労が苦痛を与えるのではない。疲労した身体にさらに鞭打つ痛みこそが苦痛なのだ(そこでは時間はただただ冷酷な拷問者の役目を担っているのだ)。……むしろ疲労自体は、宿主を安らかな眠りに誘う、効き目のいい、安価な薬なのだ……。

 休息を許された全身の、張りつめた氷のような神経が溶けてゆき、徐々にその五感が、自らにはあずかり知ることのできぬ、巨大な、しかし無数に微細に分かれたなにものかの感触のない手にゆっくりとゆだねられていく、あの感覚……。実感としての世界の全てが曖昧になり、同時に、今度はいままで観念として感じていた、自分と関係ある・もしくは関係のない、遠い過去やら、未来やら、あるいは平行した現在の世界の全感覚が、逃れようもなく明確に蘇ってくるあの起点と終点の重なる時……。

 まるで心中ひそかに秘めた感情の束のようなそれを、誰もが多かれ少なかれその生の根底に受け持っているのにもかかわらず、けっして見ることができず、知ることもできず、感じることすらできないもの……あの『死』に近しいものとしてとらえるのは大きな誤りだろうかと、よく彼は考える。

 だが毎回のように彼の問いには答えが出ない。なぜなら、まるでその問い自体が禁忌であると誰かが決めたかのように、とりとめない想念のなか、答えを見出すその前に、極めて速やかに、あの優しい「疲労」が彼をいくつもの可能性の裏側へ送ってしまうから……。

 まどろみの中、こうした思索の数々が脳裏に顕れるが……その多くは、完全に忘却の彼方へと消えてしまう。いつもはそれを必死につかみ取ろうとするのに、それを特に惜しいものに思わなくなるほど、いまの彼の心は疲れていた。

 とうとう彼は安らかな、深い眠りについた。


 そして夢を観た。大きな鳥になって、大空を飛んでいる夢……。

 これは夢か。夢にしても、ありきたりな夢だな! まるで子供の観そうな夢だ……。と彼は飛びながら思った。なぜだか、これは夢である、という自覚がはっきりとあった。また、この夢が誰かの現実であるという予感もあった。つまり、誰かの視点を夢を通して自分も見ている。……あるいは、見せられている?

 荒地の向こうに、巨大な街があった。夢の特権だろうか、街にあるものすべてが手に取るように観えた。中心あたりの建物から、もくもくと黒煙が上がっている。鳥はそこへ向かって飛んでいるようだった。

 しかし神の注意はそこにはなかった。街の外れの方、薄暗い裏路地を、二人の男が並んで歩いている。両方とも知った顔だった。そのうち一方は、最近までともに行動していたほどだ……神は鳥から離れて、二人のところへ降りていきたかった。しかし鳥と彼の意識は一体となっていた。

「おおい! おおい! きみ! その男といったい何を話してるんだ?」神は叫んだ。

 ……もちろん、夢の常で、その声は心の中で反響しただけであったが。

「この夢が覚めたら、必ずそこまで行くからな! きみを必ず見つけ出す! それまでの辛抱だ!」彼はなおも叫び続けた。

 しかし、彼らの表情からして、その対話が険悪な雰囲気でないことには、ほっと息をつき、胸をなでおろした。……


 遠くから何やら話し声が聞こえてくる。

 神は目を覚まし、耳をそばだてた。幾つもの足音や、幾人かの話し声がする。どうやら大人数の集団がこちらに向かってくるようだ。人か。この世界の住人と会うのは、初めてだな……どんな対応をすればいいのか? また、向こうはどんな態度を見せてくるのだろうか……神は安堵と不安を同時に抱えたまま、身軽に岩の上に立って声の方向を見やった。

 仄かな灯りが一つ、二つ、三つ……少なくとも十はある。長い棒の先に取り付けられた灯りが、きちんと整列したままこちらに向かってくる。その様子は、神の眼には夢の中の出来事のように映った。身体の疲れは大分とれたものの、まだ頭の整理がついていない状態であった。

《ありゃあ、なんだ? さては……狐の嫁入りかな?》神は寝起きの頭でぼんやりと思った。

 灯りは徐々に近づいてくる。隊列者の姿もあきらかになってきた……先頭にいるのは、はたして、年老いた狐だった。

「ほら、思った通り、やっぱり狐だ……狐の嫁入りだ。あれが仲人か」隊列に指をさしながらそう独りごちて、神はのんきに笑った。

 ところがよくみると、その狐、二本足で歩くし、手には五本の指がある。おまけに赤茶けてはいるが立派なしつらえの甲冑を身にまとっている……それは狐によく似た人間であった。このわずかな灯りの中ではなかなか見分けがつかないほど狐によく似た、まぎれもない、人だった。

 さらに、その狐人間の後ろには、犬に似た、猫に似た、雀に似た、蝙蝠に似た、蛸に似た、蟋蟀に似た、……まことさまざまな動物に似た人々が、列をなして歩んでいるのだった。

《おや、これじゃあ、狐の嫁入りじゃなくて、百鬼夜行だな。彼らはなんだ? 人か? 獣か? 鳥か? 魚か? 虫か? いやいや、これはまいったな!》

 神は奇妙な隊列を細い眼でいぶかしげに見やりながら、ぽりぽりと呑気に頭を掻いた。

「……おお、いたぞ! あそこにおる!……臭う、臭うぞ、異邦人の臭いじゃ! あれなるが市長の探し求めておられる青年、『まねーじゃー』殿に違いない! とうとう見つけたぞ! おそらく、彼が此度の一連の混乱について詳しく知っておるはず! よし、では、皆の衆、吾輩についてまいれ!」と例の先頭の狐が叫ぶのが聞こえた。神にはその叫んでいる意味はよく理解できなかったが、自分のことをマネージャー君と間違えていることだけはなんとかわかった。

 隊列は行進速度を速めて一直線に神の方に向かってくる。彼らはどうやら訓練された集団のようである。敵意をむき出しにして来るわけではないが、そこまで友好的な様子にも見えない……おそらく、長く面倒くさい尋問が待っていよう。神としては、見つかってしまった以上、もはやすたこらと逃げるわけにもいかず、どうしようもなく、ただ岩の上にじっと立って、一行がやってくるのを待つしかなかった。

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