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時は戻って洞窟の中、盥屋とマネージャーの二人のいる小部屋、その戸を叩いたのは誰であったのだろうか? 大方の読者の予想通り、それはあの男だったのである。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ我々二人しかいないさ、入りたまえ」と盥屋が慇懃に言うと、扉を乱暴に開けて一人の男が入って来た。
「よう! 久しぶりだな」と男は威勢よく言った。
「確かに久々だ。また会えて嬉しいよ……」と盥屋は表情を変えず静かに答える。
「ちぇっ! そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないくせに! まったく、白々しいことだぜ……熱き抱擁もないのかい? 嫌になるね……」
男はそう言ってからやっと、机の前のあたりで目をまんまるにしてこちらを見ている、どこか気弱で正直そうな青年に気づいた。
「おや? そちらのお客さんは? 初めて見る顔だな。それとも、もう何度も会っているのに、このおれが綺麗さっぱり忘れちまったのかな? それほど存在感の薄い……おっと失礼! ついつい軽口が出ちまうもんでね……」と男はニタニタと笑いながら揉み手をして謝罪した。
青年は何も答えなかった。男の道化た振る舞いに、すっかり呆気にとられて、口がきけなかったのである。
「お客さんは君じゃないか、この場合。……それに、こちらの方はだね、我らにとって大切な存在なのだよ。見どころのある若者だ!」と盥屋がうやうやしく言った。
「大切な存在? 誰だ? もしかして、おれたちの兄弟?……には見えないな。じゃあ、おれたちの先生? それとも、おれたちの僕? おれたちの上司? おれたちの友達? おれたちの宿敵? おれたちの先祖? おれたちの末裔? おれたちのペット? おれたちの応援団? おれたちの観葉植物? おれたちの酒? おれたちの医者? おれたちの教祖? おれたちの他人? おれたちの夢? おれたちの崇拝者? おれたちの影? おれたちの分身? おれたちの神? おれたちの……」
「やめてください!」青年は大声で叫んだ。「……やめてください。あなたが僕を知らないってことと、絶対に普通の人じゃないってことはよくわかりましたから!」
「彼の言う通りだ!」盥屋が青年の方をちらりと見て言った。「大切な『証人』を困らせるのはやめたまえ……」
「これはとんだご無礼を! でも許しておくんなまし、おれは考えたことをそのまま表に出しちまうのが、どうしようもない癖でね! 直そうとはしているんだが」
「紹介しよう」盥屋は落ち着き払って、「マネージャー君、ここにいる男が『宮田望』だ。仲良くやってくれたまえ。……そして宮田、この青年はマネージャー君だ。もちろん、マネージャーというのは本名ではないが、どうやら名前を忘れてしまったらしい……こんな狂った世界では無理もない話だ!……とにかく、礼節をもって接したまえ」と二人をそれぞれに紹介した。
「マネージャーというと……なんだ」
「神のマネージャーだね」
「ほう! なるほど、なるほど! お噂はかねがね! よろしくどうぞ!」と言って宮田はマネージャーに溌溂として握手を求めた。
青年はそれに応じ、「こちらこそ、お話は伺っております……」と尻すぼみに答えた。
「なかなか見どころのある青年だ!」宮田は適当に考えもなく言った。「……ところで盥屋、どんなことをこの青年の耳に吹き込んだのかな?」
「あんなことや、こんなこと。つづめて言えば、君の男っぷり、さ!」と盥屋はうそぶく。
「お前さんもつかみどころがないね!」と嘆いた宮田は続けて、「ところでおれは悪夢を観たよ!」と二人に言った。
「悪夢?」と盥屋は聞き返した。
「悪夢なんてあなたが観るんですか?」とマネージャー。
宮田は青年を不思議そうな顔で見つめた。
「いや、すみません! あなたはおよそ、悪夢を観る側というより、人に悪夢を観せる側だと思っていたので……」
「なんとなく、失礼なことを言ってないかい?」と盥屋が青年に優しく囁いた。
しかし宮田は青年の言葉を聞き、けたたましく笑い出した。
「こりゃあ、やられた! 確かに、あんたの言う通りだ! 華の宮田たるもの、そうでなくっちゃなあ……いや、こりゃケッサクケッサク、うっひっひっひ……」
「どんな悪夢だったんだ?……いや、まず、ここまでどうやって来た?」と盥屋が訊ねる。
「うっひっひ……八咫烏のじじいがおれを……ひっひ……神のところまで……ひひひ……そんで、逃げて……て、天使……うひひ……神と話して……それから……は、はー!」宮田は苦しそうなほどに奇妙な笑いを喉から出しながら、とぎれとぎれの、説明にならない説明をした。
「この人が逃げた云々と言ってるのは本当です。先生は宮田さんを見つけてどこかへ行ってしまったんです。あとはよくわかりませんが……」とマネージャーが補足した。
「なるほど、ありがとう」盥屋は青年に礼を言うと、鋭い目つきで宮田に訊ねた、「八咫烏? 八咫烏を君も見たのかね? それと、天使も? 奴らになにかされたのか?」
「いや……いや……なにもされてない。たしか、鴉と天使が闘ってたが、結局、なんでかはよくわからなかったな」宮田は気分を落ち着かせながら言った、「問題はそれからだ……しばらく寝て、起きてみると、変な人影が見える……」
それから彼は身振り手振りを交えながら、みずからが落ちていった不可思議な穴の中の世界の話をした。二人はそれを初めは注意深く熱心に聴いていたが、だんだんとその内容の荒唐無稽さにあきれて、気のない相槌を打ちながら、話の終わるのを待った。
「それで?」盥屋が訊ねる、「その『…………』とかいう会話の内容は、どんなものだったのかな? その馬鹿馬鹿しい悪夢の中でも、そこら辺が、あえて重要と言えば重要なのではないかと思うのだがね」
「いや、それが、まったく覚えていないのさ。悲しいことに! なにか、重大な話だった気がするんだが……まあ、これは夢の常なんだろうが、これっぽっちも思い出せないよ!」宮田はすでに真面目な表情になり、嘆息さえしていた。
「やれやれ! とんだ茶番だな、これは」盥屋は溜息を吐き、両掌を払う仕草を見せた。「盥屋教授の診断結果!……ただの変わった悪夢だよ、それは。おねしょはしなかったかい? ストレスが溜まっているんだな、相当……」
「なんだか、お前もおれに似て、遊び半分の、どうでもいい戯れ言を言うようになってきたな……」宮田は少しばかり心外な面持ちで反論する、「これは結構、まじめな話ですぜ。あるいは本当のことかもしれないんだ……なんせ気づいたら、この洞窟の前に横たわってたんだからな! おかげで服に臭いがついた……」と自分の身体を嗅ぎ始めた。
「それは本当ですか?」青年が口を開いた。「不思議な話ですね、僕も夢を見た後にこの街まで来たんです!」
「そういえば、私は夢を観ないね」盥屋は首をすくめた。「何故だろう?」
「夢も希望もない詭弁家の盥屋君の代わりに、誰かが観てくれてるんじゃないか?」と宮田が剽軽に言う、「どこかに、あんた専属の夢見代行人がいるんだろうよ……」
三人はここで初めて揃って笑った。もっとも、盥屋の笑いは極めてひそやかな、なにかを考えながらの笑みであったが……。
「とにかく、これは『神』のお導きだ!」と盥屋は宣言した。「この三人で出来る鼎談、いや『鼎茶番』を楽しもうではないか?……それにしても、最も重要な人物がここには欠けている気もするが……」
「あいつとはもう会ったからな、しばらくはいいや」宮田は呑気に言った。
「誤解もとけたかい?」盥屋は珍しくウインクしながら宮田に訊ねた。
「エンガチョ、ガラにもないことやるなよ……まあ、それについては、お察しの通りさ」と低く言う宮田。
「それで? 鼎茶番というのは?」マネージャーもどことなく柔らかくなったその場の雰囲気にのせられて、のんびりと言った。「一体何をするんです?」
「ウム……神への復讐と挑戦、かな」盥屋は平然と呟いた。
「え?」
「いや、神への復讐と挑戦。そして来たる大混乱。やがて世界は混沌に包まれる……」
「いやいや、なにをおっしゃってるんですか?」青年はうろたえて、宮田へ視線で助けを求めた。
当の宮田は大きく伸びをしながら、「おっ、いいね、それは! おれもそろそろ、身体が鈍ってきたところだ……運動! 大切なものです」
「安心したまえ、マネージャー君。決して危害を加えたりはしないから……きみがほどほどに、おとなしくしていればね。君には君なりの役目がある」と盥屋は再び緊張した様子の青年をなだめた。
「あなたたちは」マネージャーは大きく息を吸い込んで、それを吐きだした。「やっぱり悪魔なんですね!」
その場に一瞬の沈黙が訪れた。
そして、二人の哄笑。
まるで、三人きりの部屋とは思えない、やかましい笑い声。
「今更、何を言うのだね。悪魔?……まあ、私たちは別に、そう思ってはいないが、見る人によっては、そのように見えるかもしれない」痩せた男は笑いながらそう答えた。
「なぜあなたたちは」青年は微かにふるえながら訊ねる。「そんなにまで先生……いや、あなたたちにとっては、自分たちを創った、神……その神を怨んでいるのですか? これじゃあまるで、これっぽっちも理由のない反逆だ……先生だって、こんなことは予想してないと思います……あんまり不条理です……」
「先ほど、君にはっきりと言わなかったかな」盥屋は答える。「怨んでいるというよりも、信じるに値しないと確信したのだよ、私は。神は実在しないし、実在したとしても、それはこの宇宙になんらかの誤謬が生じた結果による、ただの錯覚だ。その『宇宙』さえ巨大な虚無なのに、それより矮小な『神』がなぜ空虚でないといえるのだね? もちろん(ここで彼は小さく咳払いをした)、『神』が『宇宙』を創った、と定義する方法もあるがね、それも同じことだ、やはり双方とも、いや、すべてが空虚なのだ。宇宙が、神が、我々が、本質の充溢した確固たる存在であるということは、だれにも証明できないのだ……」
「でも、それなら空っぽだってことも証明できないじゃないか?」ここで口をはさんだのは、以外にも宮田であった。「考えてもみろよ! この宇宙は星に満ちてる、太陽は爆発するガスの塊だ、海は塩水のでっかい溜まりだろう、おまけに、人間の頭には脳みそが詰まってるし、あらゆるものには中身があるじゃないか! これは一体どのように説明するのですかね?」
「それは物質的に見たこの世の様相だ」痩せた男は落ち着いて答える。「確かに、頭で考えれば『もの』の全てには中身があり、その中身にもまた中身がある。万物は無数の構成要素が内包し合うことで存在している……しかし、我々の頭の中が実は空っぽだ、と仮定したらどうだろう? そら、みたまえ、すべてひっくり返るではないか。つまり海は空っぽ、すると太陽も空っぽ、だとしたら宇宙も空っぽ……なにもかも空っぽだ。そして私はそういった認識の方がより正確だと思っている」
「何故だ?」
「心がそう感じているからだよ……」痩せた男はそう言って天井を見上げた。青年もつられて上を向くと、一面に蜘蛛の巣が張っている。精緻な織物が時の流れとともに怠惰となり、腐りへたばった様にも似て、なにか言い知れないおぞましさを感じた。
「こりゃあ詩人だな、お前にしちゃあ珍しい! Don't think, feel!」
「いや、まさにそうなのだ。勘違いしてもらっては困るが、私は別にこの世が空っぽでいい、あるべきだと思っているわけではない。ただ、私なりに考えた末に、このような結論に達したのだ。それでも絶望にあらがって、私は『時間』に注目した」そこで盥屋はため息をついた。「しかし駄目だった。むろん私だって、私がより私である時間が欲しい、少なくともそう思っていた時期もあった。時間とは言うまでもなく流れ続けるものだ。だから私もうまくその流れに乗って旅をし続けなければならない。しかしそれはいわゆる『自分探しの旅』とは違う。自分探しの旅は文字通り自分を探すことに目的がある、つまりまだ自分をしっかりつかんでいない。あやふやな自分という概念を確固としたものにしたいという願いの表れだ。対して時間の流れに乗ることは、人の運命のようなもので、それ自体が目的なのだ。時間は我々に優しく接してくれるときもあれば、厳しく語りかけてくることもある。時間のきまぐれについてゆくのは、難しい。まるで果てしないことのように思われる。だが『私がより私である時間が欲しい』という願望を持ってしまったものは、絶えずこの挑戦を試みなければならない。つまり、私は時間を信じていた。時間こそ神のようなものだと思っていた!」
「ところがどっこい、そうじゃなかったわけだ」
「そうだ。君の持っていた砂時計を見て感じたのだ、『時間は無い』と。砂時計、日時計、腹時計……この世には昔から様々な時計があるが、正確に時を捉えることのできる時計は存在しない。これからも存在しないだろう。なぜか? 時とは我々が虚無に還っていくまでの道のりだからだ。つまり、時間もまた虚無に属する」
「それはどういうことです?」青年が口を開いた。「もっとよく説明してください」
「つまりはこういうことだ。われわれ存在していると信じられているものすべては、巨大な、いや広大無辺な砂漠にいる。くりかえして言うが、残らずすべての存在が、だ。そして我らの足元の砂粒は徐々に崩れてゆく……ゆっくりと、確実に我らは『ある一点』に近づいている。よく見たまえ、それは巨大な、やはり広大無辺な蟻地獄の縁なのだ。やがて我々はその一点に落ちて喰われるだろう。蟻地獄は虚無だ。宇宙の真の本質と言ってもいい。そして、時間とはこの砂粒なのだ」盥屋は微笑した。「わかるかね?」
「一応きいておくが、お前がおれの砂時計をぬすんだんじゃないよなア、兄弟……? その考えが自分でも気に入って、記念に持ち去っちまったとか?」宮田はそう言って盥屋をじっと睨んだ。
「いや、いや、君が疑うのもわかるが、盗んだのは私ではない。砂時計の行方については私なりの考えがあるが、ここで話すことではない。まだ仮説の域を出ない……」
「それで?」マネージャーはなおも好奇心を隠さず問う。「宇宙も、時間も信じられなくなったあなたは、いったいどうするんです?……なにを信じて生きているんです?」
「何も信じるに値しないという自覚……そういったはずだがね」思索家はどこか蔑むように青年を見つめた。
「それでも、たった今、あなたはこう言ったじゃないですか……『心がそう感じているからだ』と? それはつまり、あなたはまだ、心というものを信じているということじゃ?」
「ハハハ、鋭いね。それが私の最も言いたいことかもしれない……つまり、なぜ神を信じないか、ということに繋がってくるのだ」
「何故です?」
「君は先生の作品を読んだことがあるかね?」
「もちろんです」
「それで、何を感じた?」
「何って……素晴らしく、面白いですね。大部分の作品は……」
「なるほど、まあ、人間はああいうのを興味深く感じることもあるのだろう……しかし」男は青年に近づき、目をのぞき込んで、「君は先生の作品に、なにか『空虚』を感じなかったかね?」
「空虚?」
「なんとなく、胸にポッカリと穴が開いたような、風に吹かれる秋の木の葉を見たような、誰かと死に別れたような、孤独と寂寥……」
「詩人だな!」宮田が茶々を入れた。
「ありがとう。しかしマネージャー君、きみにもそんな経験はないかね?」
「あります! 確かにありますね……でもそれは、先生の作品だけじゃなくて、ありとあらゆる物語に言えることなんじゃないですか?」
「そうなのだ!」盥屋は叫んだ。「ありとあらゆる物語……ありとあらゆる事象……ありとあらゆる可能性……それらが通りすぎたあとに『空虚』はある。ナメクジが這ったあとに残る、銀色の粘液のように……私はそれを感じている器官を『心』と名付けているに過ぎない。だから、いわゆる一般に言われている、心、精神、魂というものが存在するとは信じていない。ただ、この寂寥……宇宙が我々を孕んだ時から在るこの孤独……だけは感じることが許されている、『心』でね……いや、むしろこう言おう、われわれ『全存在』は、そう感じるように呪われた『神の子』だと!」
「神の子? じゃあ、どうして神に反逆するんです? それならむしろ、感謝すべきじゃないですか?」
「わからないかな、これは嗚咽なのだよ。われわれ全存在の、全存在をかけた、止めようのない嗚咽なのだ……お互いがお互いを憐れみ、蟻地獄へ堕ちまいと必死に群がり合う、われわれ全存在の怒り、哀しみ、疑い……それらが込められた、神への一発の銃弾……それは神の眉間を貫通し、彼を蟻地獄の底へと叩き堕とすだろう……」盥屋は徐々に声の調子を落とし、ついにはぶつぶつと呟くまでとなった。
「あなたは考えすぎじゃないですか?」青年は努めて陽気に言った。「もっと単純に考えましょうよ、気楽に生きましょうよ……」
「物事を単純に考えた神が産み落とした我々は、皮肉なことに、気楽に生きることを許されていない」盥屋は憎悪を込めて言った。「残念ながら、これが性分なのだよ!」
「それで、いったい何するんだね?」宮田は苛立つ声で訊ねた。「話は分かった。よおくわかったよ! ちなみに、おれにもおれなりの考えはあるが、それはまあ、置いておいて……あんたの考えはわかった。問題なのは、実際のところ、どうやって神に復讐するんだ?」
「それには」盥屋は落ち着いた声で言った。「宮田、君の協力が是非とも必要だ」
「別にかまわないぜ! そんな気がしてたしな……」と宮田もこともなげに答える。
「決まったな!」
盥屋は一声叫ぶと、部屋の隅に積んである革袋の方まで行き、上から三番目の袋に手を突っ込んだ。
「念じよ、さらば与えられん、か……見たまえ……どうかね? なに、ちょっとした手品さ」
次の瞬間、青年は驚きのあまり叫んだ。
「なんでそんなものが!」
盥屋の手には、筒型の爆弾……ダイナマイトが握られていた。マネージャーにとってそれは、テレビや映画でしか見たことのないものだった。




