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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第三章

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 俺は、事務所から歩いてすぐのイタ飯屋『アルティジャーノ』に向かっている。マネージャーのアパートに直行しようと思っていたが、急に消化器が悲鳴を上げだしたんだ。何よりもまずは、腹ごしらえからだな。武士は食わねど高楊枝? いいんだ、いいんだ、俺は武士じゃない。

 驚くべきことに、そしてまた当然のように、アルティジャーノの扉は開いていた。

 しゃれた雰囲気の店で、結構気に入っている。いつも客は俺と一人か二人くらいで、ガラガラなんだが、それがまたいい。すぐさま、若くて痩せた男が注文を取りに来る。わざとゆっくり時間をかけて注文をくりかえすのは、相当暇な証拠だろう。

 今日は一人も客がいない。寂しげに椅子とテーブルが並んでいる。そりゃそうだ、こんな霧の深い日にわざわざ外食するやつもいないだろう。……俺みたいなのを除いては。適当な席に座ると、空のガラスコップと、水のなみなみ入った透明な緑色の瓶を若い男が持ってきた。

「こんな日に、よくやってるね」

「ええ、まあ。いつまでも休んでいるわけにはまいりませんからね」

 たしかに、とうなずいて、メニューを見る。どんと目に飛び込んできたのは、血も滴らんばかりの、ローストビーフ丼の写真だった。イタ飯屋なのに、なぜか丼物がおすすめメニューになっているところが気に入った。よし、ここはいっちょ精をつけるか。

「これ、大盛りで」と写真を指さす。

「かしこまりました。くりかえします、ローストビーフ丼、大盛りで(俺はそうは言ってないけどな)。よろしいでしょうか? では、少々お待ちください……」

 俺はコップに水を注いで一気に飲み干した。今までの状況を頭の中で整理し始める。どうやら、カギになるのは「悪魔」と呼ばれている二人組の男らしい……やっぱり、そいつらを見つけるのが最優先だろうか? だが、いったいどこにいるんだ? 有力な手掛かりは何もなし。雲をつかむような話だ。祈祷師エクソシストにでも聞いてみるか?

 早く来るだろうとは思っていたが、それよりも早く丼は来た。大盛りの白米の上に、血の滴る半生肉、その上にはなんだかわからないが白いソースと葉っぱがかけられている。中心には半熟卵がトロリとのっかっている……。

 たまらず口にかきこむ。これは……うまい!

「お味はいかがでしょうか」

若い男が味を聞きに来た。相当暇なのだろう。

「かなりうまいよ。ここのシェフはいい腕だね」

「ありがとうございます」

「それにしても、よく肉が調達できたね。この辺の家畜も、だいぶ盗まれたんだろ?」

「ああ、それでしたら、ご存じありませんか? 盗まれるのは、決まって、『牛以外』なのです。山羊とか、羊とか、豚とか。鶏なんかもそうですが、なぜか牛だけは盗まれず無事なのです。それで」と男は血の滴る肉を手のひらで示して、「こうしてお客様にご提供させていただけるということです」

 なるほど、と俺はうなずいて、少し考えるようなそぶりをした。暇そうな男は奥に戻っていった。

 さて、腹ごしらえもすんだし、マネージャーの住んでいたアパートにいくか。


俺は小松から教えてもらった住所を頼りに、深い霧の中を犬のように歩いた。骨が折れたが、そこまで遠いところにはなく、一時間ほどでたどり着いた。

 大家は話の分かる人だった。マネージャーの友人だと言ったら、簡単に部屋を開けてくれた。

「心配なんですよ、失踪するような人じゃないから」大家――パンチパーマの中年女性――は本当に心配そうに言った。

「僕も心配しています、ここになにか手がかりがあればいいんですが」と俺は努めて清く正しい感じで言った。

 マネージャーの部屋の中は不気味なほど整然としていた。つまり、無理やり拉致されたとは考えにくい。すくなくとも住人はけっこうマメなタイプのようで、隅から隅まで丁寧に掃除されている。キッチンの様子からみるに、自炊もよくしているようだ。感心、感心。やけにオーディオ機器が多いところをみると、趣味は音楽鑑賞だな。本棚にはAの本がずらっと並べられている。あいつ、こんなに本を出していたのか。なんで今まで気づかなかったんだ?……そうか、俺があんまり本に関心がないからだな。……

 部屋をそれなりに物色してみたが、日記などは見つからず、役に立たない日常のメモなんかが見つかるだけだった。パソコンを調べてみると、やっとそこに日記のようなワードファイルが入っていた。こいつ、彼女でもいるのか? 仕事と関係なく頻繁に、誰かと会っているぞ。だけど、その名前はついにわからなかった。さらに言うと、失踪の原因がわかるような記述も一切なかった。

 パソコンをシャットダウンして、あたりを見回すと、小さな作業机の上の、小さな鍵が目にとまった。なんの飾りもついていない、地味な鍵だが、いったい何の鍵だ?……探偵の勘が訴えてくる。探せ。探せ。鍵穴を。

 洋服箪笥の脇の壁との僅かなスペースに、それはあった。灰色の、小型で頑丈そうな金庫。オイオイ、これはなにか……やばい予感がする。覗いてはいけない他人の秘密を、あえて覗き見るような。でも、覗き見ることこそが探偵の仕事なんだよな。因果な商売だが、仕方ない、仕方ない。

 鍵は鍵穴にぴったりと合った。ゆっくり慎重に回す。もしもこれが罠で、開けた途端爆発するような仕掛けがしてあったら?……しょうもない妄想が頭をよぎるが、もうどうしようもない。静かに扉は開いた。


 しばらくして。

「よし、帰ろう。小松には、手に負えないといって、断ろう」俺は言う。

「何を言っている? いまさらビビってるのか? お前はそんなタマかよ? がっかりさせるな。それに、これはチャンスだぜ」と、もう一人の俺が言う。

「チャンス? どういう意味だ。むしろこれはピンチだ」

「ピンチをチャンスに、だよ。この意味が分からないのか? こんなブツが絡んできたということは、この事件、相当デカいぞ。かつて経験したことないほどな」

「これが初めての事件だぞ」

「とにかく、この事件の真相をつかめれば、俺もいっぱしの探偵として認められる、そうじゃないか、兄弟? それに、このブツは武器になる。文字通りの、強力な武器にな!」といってもう一人の俺が笑う。

「頭、大丈夫か? お前。コイツはちょっとばかし、危険すぎるぜ。俺の手に余る仕事だ。確かに今後はこいつのお世話になるほどのヤバい奴らと関わらなくちゃいけなくなるかもしれない。だけど、それは依頼をクソ真面目に遂行しようとしたらの話だ。なにせ、こっちは一人なんだぜ?」

「二人じゃないか、兄弟。俺たちが力を合わせれば……」

「ちょっと待った! お前は何者で、何様のつもりなんだ? 俺たち、だと? これはあくまで俺一人の体だぜ。エイリアンにも、妖怪にも、悪魔にだって乗っ取られちゃいない。お前はどこから来たんだ? それもいきなり」

「俺は最初からいたさ。俺たちが生まれた時からね。いや、むしろ、俺たちの人生は、俺によるところが大きいんじゃないかな? 兄弟」

「どういう意味だ?」

「俺は俺たちの中にある、スリルと冒険を求める心さ。俺たちが探偵になったのだって、それを求めていたからじゃないのかい? このまま尻を向けて逃げ出したら、あの、クソつまらない日常にカムバックすることになるんだぜ? いいのか? 兄弟。それに」もう一人の俺はにんまり笑った。「あの蠅と意識を交換する力、あれも俺のおかげなんだぜ。自由を求める心、それがあの力を俺たちにもたらしたのさ」

「クソッ!」と俺。「小狡いやつめ。あの力はこちらにも入用だ……しかたない、イニシアチブはそっちにやるよ……好きにしな、でも命だけは大切にしろよ、お前一人のもんじゃない、俺のものでもあるんだからな」

「さすが兄弟! 話が分かるね。じゃあ、好きにさせてもらうよ。……もっとも、命の保証はないけどな!」

「おい、まて……」


 こうして「安定と安全を志向する俺」は「スリルと冒険を求める俺」に負け、当面の行動方針は固まった。

 俺は大家に軽く挨拶をした後アパートを颯爽と出た。俺の自我が分裂した直接の原因である、金庫の中にいくつもの袋で厳重に保護されていた、黒びかりする拳銃と実弾のずっしりとした感触を懐に感じながら。

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