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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第三章

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 俺は濃い霧の中を、急ぎ足で事務所まで戻った。

 誰もいない道路をひとり淡々と進む。それにしても濃い霧だ。まるで百人の重度(ヘビー)喫煙者(スモーカー)がふかしているような……。なんだっていうんだ、この状況は? 改めて考えると、ことの重大さに思わずため息が漏れる。いいさ。いいさ。さっき手に入れたこのUSBに全ての謎を解く鍵が詰まってるんだろうから。俺の勘が正しければ……。

 郵便受けには当然のごとくなにも入っていなかった。帰ってくるとき、いちいちチェックするのが癖になっている。それから、例のちぐはぐな愛すべき部屋に入る。むあっとした熱気が押し寄せてくる。当然のごとく、誰もいない。こういう時、本物のハードボイルドだったら、侵入者の一人や二人いてもおかしくないんだが……。そしたら、侵入者の野郎と見事な格闘戦を繰り広げてやるのに……少し残念だ。冒険には危険が付き物だからな。スパイスのないカレーは不味い。

 さっそく机の上のパソコンのスイッチを入れて、パスワードを入力(これ入力しなくてすむ方法はあるのだろうか? 俺にはわからない)。整理のついてないデスクトップ画面が映し出される。どうも機械は苦手だ。というか、文明の利器全般が苦手だ。テトリス以外は。USBを脇のポートにセットして、中身を確認する。いくつかの、文章データのようなものが入っていた。てっきりビデオメッセージか何かだと思っていたが、まあいいだろう。わかりやすく『SOS、あるいは遺言』と題されたファイルがあったので、クリックしてそれを開く。すると、こんな文章が出てきた。


『この文章を読んでくれた人へ。この文章を最初に読むことになるのは誰だろう? 編集長? 警察? それとも、私の思いもよらない誰かだろうか。おお、どうかあの恐ろしい悪魔どもでないことを祈る!……もし悪魔でなかったら、悪魔でないあなた、あなたに伝えたいことがある。これから話す話は、まったく荒唐無稽、信じがたいものだろう。実際のところ、何度、自分を疑ったか知れない。だが、これはまぎれもない事実なのだ。どうか信じて欲しい。……

 今日はいつもと変わらない一日になるはずだった。さっきまでは。私は、一篇の小説を書いていた。タイトルは『ヴェクサシオン』。知っての通り、私の職業は小説家だ。しかしこの作品は特に世に出すつもりもなかった。なんだか、自然にキーボードをうつ手が動いたのだ。内容は……どこか知らない世界で、二人の男が小難しいことを語り合う話だった。ここでは詳しくは述べない。あまり重要なこととも思えない……。私はキリのいいところでその小説を中断した。なぜだか、それ以上書くのに飽きてしまったのだ。私は椅子に座ったまま伸びをした。そのとき確かに、カタカタと、わずかな揺れを感じた。地震かとも思ったが、今考えれば、それがただの地震ではなかったのだ……。インターホンが鳴った。マネージャーかと思った。私は入りたまえ、と言った。しかし乱暴にドアを開けて入ってきたのは、マネージャーではなく、まさに今の今まで私が執筆していた『ヴェクサシオン』の中の登場人物だったのだ! 一切が変わってしまった。

 信じられないかもしれないが、続きを聞いてほしい。その二人の男――宮田望と、盥屋――は、私のことを「神」と呼んだ。だがそこには敬意などまったくなく、何の恨みがあるのか、私を散々愚弄した。すべてが私を主役とした、茶番だった。そのとき、私はなにより――恐ろしかった。自分の創造した存在が、実体をもって牙をむいてきたのだ、恐ろしくないはずがなかろう? とにかく、二人は好き勝手にやったあと(幸い、物的被害はなかった)、書斎から立ち去った。……

 以上がことの顛末だ。まあ、自分でも気が狂っているのではないかと思う。なにか夢でも見たのかもしれない。しかし私にはこういったことについての「前科」がある――今回のことが初めてではないのだ。……それはまだ若いころ……いや、この話は今はやめよう。時間がない。私は旅立つ。理由は? あの二人から逃げるためなのか? それとも追うため? はっきりとはわからないが、腹の底から言いようのない使命感が湧いてきた。私はこの文章を残し、消えるだろう。しかしそれもしばらくの間だ! また帰ってくるだろう。こんなおかしな怪文書を、もし最後まで読んでくれた方がいたら、ありがとう。探さないでくれたまえ、私にせよ、悪魔どもにせよ。きっとあなたにも危険が及ぶから。危ない目にあうのは、私だけで十分だ。いや、やはり、旅の道連れに、マネージャーのやつでも誘っていくとするかな……。――――Aより。最後まで読んでくれたあなたに感謝を込めて』


はァ……Aのやつ、相変わらずだな、まったく! 決断が早いというか、せっかちというか……。この文章も、ところどころ端折ってあるから、話の全体がわかりにくいったらありゃしない。しかし、それにしてもこの話、荒唐無稽。普段ならまったく信じられないが、世の中のこんな混乱を見ていると、信じるしかないような気もするな……。この騒ぎが「悪魔」どもの仕業ってンなら、大体の辻褄は合う。悪魔、あくま、アクマか……。こいつは参った。手強そうだ……まあ、いいさ。いいさ。何事も、なるようにしかならないんだから。

 それにしても、『物的被害はなかった』とあるが、じゃあ、誰がAの家を焼いたんだ? それに「宮田望」に「盥屋」だって……? どこかで聞いた名前だな……思い出せない、確かにどこかで……いや、そいつらはAに創作された人物、俺が知っているはずないな。考えるだけ無駄だ。

 さて、どう出るか――手掛かりは掴んだ。だが、これじゃあ、ほとんど、なにも掴んでないのと同じだ。だって情報が少なすぎる。一体どこをどう探せばいい? ……小説家のくせに、説明不足なんだよ、Aのやつ。思ったよりも、事件の核心に迫らなかったな。大体の話はわかったが――とりあえず、手短なところから当たってみるか? Aのマネージャーの住所……小松から聞いていたな。そこであいつの足取りを探るとしよう。そう決めた俺の耳に飛び込んできたのは、例のブゥゥゥンンンンン……ブゥゥゥンンンンン……という羽音。また蠅か! どこから入ってきた? どうやら、おれはこいつらとは切っても切れない関係にあるらしい。 


 俺は霧深い路地に再び繰り出した。もうこの霧にも慣れっこだ……と言いたいところだが、なんでかわからないが、どうもこの霧は好きになれない。なにか、得体のしれない不快さをもよおすというか、飲み込まれそうになるというか……。ガア、ガア、遠くの方で不気味にカラスが鳴く……エンガチョ、早く事件を解決して、ゆっくりテトリスに浸ろう。

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