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俺の足は、自然にAの家の跡へと向かっていた。場所は小松に聞いたんだが、どうしても気になった。なにか手掛かりがありはしないか。こういう時の勘は信じるべきだ。じゃないと、信じる時がなくなっちゃうからな。
A……あいつのことは俺もそこまで詳しくは知らない。
同じ大学の同期なんだが、文芸愛好会というクラブで一緒だった。正確に言うと奴の方から誘われた。会員は俺とAを含めて五、六人。つまり俺は人数を埋めるための幽霊メンバーだった。だから別にブンガクに興味があるわけじゃなかった。他のメンバーもそんなに熱心に活動はしてなかったから、実質、Aが一人奮闘していたようなものだ。ただAと話すのは楽しくて、活動場所の狭い空き部屋やら大学の近くの喫茶店やらでよく話した。前に言った通り、あいつは金持ちの息子で、小さいころから好きな本を好きなだけ買ってもらえた。だからブンガクにも詳しかったんだな。
「木安、素晴らしい一節をみつけたぞ! 朗読するから、まあ、しばし聞いてくれ……。
『Kは城に眼を向けたまま、歩みつづけた。ほかには彼の気にかかるものは何もなかった。ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、石はぼろぼろとくずれ落ちそうに見えた。Kはふと、自分の故郷の町を思い出した。故郷の町も、このいわゆる城なるものにほとんど劣ってはいなかった。Kにとって城を視察するだけが問題であったのなら、この長旅はもったいない話で、それくらいならもう長いあいだいったことのない昔の故郷をもう一度訪ねたほうがりこうというものだったろう。そして彼は、故郷の教会の塔とかなたにそびえる塔とを頭のなかで比べてみた。きっぱりした恰好で、尖端がためらうこともなく上空をめざしていて、屋根は広く、赤瓦につながっているあの故郷の教会の塔。それはたしかに地上の建物だが、――それ以外のものをどうしてわれわれは建てられるだろうか――低い家屋のむれよりはずっと高い目標をもち、陰鬱な日常の日々がもっているよりはずっと明るい表情をもっていた。ここで上のほうに見える塔は、――それは眼に見えるただ一つの塔だった――今わかってみると、住居の塔、おそらくは城の母屋の塔であり、単調な円い建物で、その一部はきづ(・・)た(・)によってうまく被われていた。小さな窓がいくつかついていて、それが今、太陽の光のなかで輝いていた。――その光景には何か気ちがいめいた趣があった――さらに塔の尖端はバルコニー風になっていて、その胸壁が、まるでおどおどした子供の手か投げやりな子供の手で描かれたように、不確かな様子で、不規則に、ぼろぼろに、青空のうちにぎざぎざの輪郭を浮かび上がらせていた。それは、何か正当の理由で家のなかのいちばん離れた建物に閉じこめられねばならなかった悲しい家の住人の一人が、わが身を世間に示そうとして、屋根を突き破り、ぐっと身体を起こしたような恰好だった。』
……どうだい? 長編小説『城』、書いたのはフランツ・カフカ、原田義人による翻訳だ。素晴らしいじゃないか? これ以上に美しく哀しい文章をいったい誰が書けるっていうんだろう?」
あいつは分厚い文庫本を朗読してから、興奮した様子で俺に言った。
「そうだな。まったくだ」俺は投げやり気味に言った。なんだかすごい感じはしたが、難しいことは、わからない。
「木安、しっているか? カフカって作家はな、死ぬ前に友人に『ぼくの原稿を全部、燃やしてくれ』って遺言したんだぜ」
「へえ? そりゃあ変な奴だなあ。普通、作家っていうのはどんな形であれ、作品が後世に残るのを望んでいるんじゃないのか?」
「そう思うだろ? ところが、カフカは違ったんだ。彼は全ての原稿を燃やすことを望んだ。木安、何故だかわかるか?」
「さあ? 理由は俺なんかにはわからないな。でも、本当に燃やしたかったら人には頼まないよな。俺なら、生きている間に、自分で燃やすぜ」
「たしかにな。俺もそうする……」といってAは笑った。「思うに、カフカは試したかったんじゃないかな……」
「試す? なにをだ?」
「なにかを、さ。自分でもわからなかったんだと思うよ。でも、とにかく、彼は試してみたかったんだ……自分の全人生をかけて。そしてそれは誰にも理解されない試みだった……」
そう言ってAは黙りこんだ。
ある日、あいつが血相を変えて相談しに来た。なんでも親父の会社が倒産寸前で、是非とも金が要るという。俺はバイトでためたなけなしの金であいつの家のシャンデリアやらカーペットやらを買い、引き取った。ありがとう。ありがとう。この恩は忘れない。あいつは何度も俺に言った。あの時のくしゃくしゃになったAの顔を、今でもたまに思い出す。
それから間もなくして会社は倒産。Aの一家は蒸発した。……
焼け跡、つまりかつてのAの家はひどい有様だった。よっぽど燃えたんだろう、建物の骨組みが丸見えだ。……それでも、立派な一軒家だったことはよくわかる。あいつは一度ならず二度までも、住む家を失ったことになる。しっかり者だが、肝心なところで少し抜けているあいつ……俺はAの身に降りかかった不幸を思って、ちょっとだけ沈鬱な気分になった。いや、だめだ、だめだ、捜査に私情を挟んじゃ……私情? 考えてみれば、この依頼を請け負ったのだって、Aの名を聞いたからじゃないか? すでに私情をはさんでる、いや、はさみまくりだ。いまさら自制してなんになるってんだ……。Aのやつ、絶対に探し出してやるからな。そうして、ゆっくりお互いの武勇伝を語り合うんだ……あいつはいままで、相当に苦労したろうからな。俺だって負けないくらい、いろいろあったんだ……。
あたりでは警察が現場検証をしている。制服姿の男たちが、立入禁止のテープの内側であれこれ作業中だ。
そして大量の野次馬。これは老若男女。暇で暇でしょうがなく来たようなやつもいれば、本当に心配している感じの人もいる。口々に「物騒ねえ」とか「放火で間違いないらしい」「Aさん、まだ見つからないってよ」などと囁き交わしている。
俺は雲霞のような野次馬の群に加わって様子を見ることにした。家の様子はわかった、知りたいのは警察の捜査状況だ。でも俺はまだ警察関係者に知り合いはいないから、こうして遠目に様子を見るしかない。情けない話だ、まったく!
「どうやら、書斎の焼け方が特に激しいようです」捜査員の一人が上司らしき男に言う。
「そうか。ではそこが出火元だな」上司が断定する。
「そのようです。それと、こんなものが見つかりました」捜査員はもう一人――これは彼のさらに部下だろう――に目で合図を送った。部下はなにやら黒焦げになった四角い物体を重そうに抱えてくる。
「これはなんだね、真っ黒だが」
「Aさんの使用していた、デスクトップパソコンのようです。なにか情報が得られるかもしれません。……もっとも、この状態じゃあ、あまり期待はできませんが」捜査員はそう言って顔をしかめた。
「フウム……よし、鑑識に回そう。とりあえずそこに置いておいてくれ」上司は道の脇に停めてある大きなワゴン車を指さすと、
「それにしても、事件が多すぎる……おかげで、どこも一杯一杯だ。放火、略奪、誘拐……世の中どうなってるのかね? まあ、その原因を突き止めるのが、我々のしごとなのだが」と言って苦笑した。
部下の部下が黒焦げのパソコンを車に運んでいくのを見て、俺は現場を一旦後にした。
近くの自動販売機まで歩き、その脇のごみ箱を漁る。甘い、すえた臭い……人間様って本当にいろんなドリンクを飲むよな。俺も一時期、線路脇の、なぜだか異常に安い販売機に並んでいる、得体のしれない商品を、新商品が出るたびに飲む遊びに、けっこうハマったな……まあ、そんなにおかしなやつは無かったが、結局かなりの金を使ったんじゃないか? なんで自販機にこんなのが売ってるんだよ、とか言いながら、缶入りおでんの小さな具を一緒に食べたっけ……一緒に? そうか、あれもAとだったな……いま思い出したぜ。なんだかんだ言って、あいつとは仲良くやっていたんだな……。しまった、少し湿っぽくなっちまった。私立探偵にあるまじきことだ!
気を取り直して、異臭を放つごみ箱を揺さぶると、案の定、大小さまざまの蠅が何匹もブンブン飛びまわる。そのうちの特に大きい奴と目が合った。
すかさず意識と意識を交換する……。
次の瞬間、俺は蠅。俺は飛ぶ。焼け跡へと……。
幸いワゴンの後部扉は開いたままだった。僥倖、僥倖。
Aのデスクトップパソコンはそこにあった。見事に真っ黒こげで、使い物になりそうもなかった。だが俺の狙いは別にあった。パソコンの下部に付いているUSBメモリ。この身体だと、馬鹿でかく感じられる……これが目当てだったんだ。
さて、これを、この非力な体でどうやって抜き取ろうか?
そこで一旦、パソコンから離れ、勢いをつけて、斜めにUSBメモリに体当たりする。思った通り、焼け焦げてもろくなったポートはミシミシ音を立てた。何回かぶつかると(これがけっこう痛かったが)、ボコンとポートが割れた。落ちたUSBメモリをすばやく六本の脚でつかみ、自動販売機の方へ急ぐ。
「あれ? このパソコン、こんなに壊れてたっけか?」
「ホントだ。まァ、あれほどの猛火だったんだ、熱で脆くなっていたんだろ。もっと丁寧に運べよ」
なんていう警官たちの会話を後ろに聞きながら。……
精神をもう一度入れ替え、元の身体に戻ると、フラフラ飛んでいく特大蠅にサンキューと呟く。
ふと誰かの視線を感じる。見ると、野次馬の一人だろう、ジャージ姿の親父が、こちらを怪訝そうな目で見ている。
「あんたあ、さっきまで手足バタバタさせて、ブンブンうなっていたけど、大丈夫か? 救急車呼ぼうかと思ったど」親父が訊いてくる。
「え?……いや、ここの酒を飲んでいたら、思ったより酔っちゃってね」
「酒? ここには酒なんて置いてねえよ」
「ああ、そう……じゃあ、ジュースで酔っちまったのさ」
「そんなやついるかあ? あんた、やっぱり病院行った方がいいって」
俺はそれには答えず、速足でその場を立ち去った。
変なところを人に見られたが、まあ、計算外は捜査につきものだ。
確かな収穫はあった。Aが行方不明になる前、最後に記録したもの……何が入っているかわからないが、このUSBメモリは重要な手がかりになるはずだ。




