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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第二章

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 マネージャーの目の前に立っていたのは、よれよれの背広を着た、熊のような男だった。

 毛むくじゃらなわけでも、鋭い爪や牙を持っているわけでもないが、なぜか彼は会う人に必ず熊のような印象を与えるのだった。それはもしかしたら、顔の中心が見事に盛り上がっていて、そのくせ先端の鼻はつぶれた三角形をしているからかもしれないし、とても小さく気弱そうな眼や、それと対照的に大きく、よくしゃべり、よく食べそうな口のせいかもしれない。とにかく、魔法で熊にされた人間、いや、人間にされた熊のような外見と仕草で、恐ろしいような、愉快なような、ちぐはぐな印象を与える人物……あくまで人間と考えた場合だが……であった。

「ようこそ! ヴェクサシオンの世界へ。お目覚めのようですね」男はくりかえした。

「はあ、おはようございます。……それにしても、いったい、ここはどこです? あの世かな?」青年は辺りを見回した。

 白を基調とした室内。薬品の臭いが鼻をつく。どうやら、病室のようだ。……少なくとも、あの世ではない。彼は粗末な寝台に横たわり眠っていたのだ。まるで病人が着るような味気のない服を着せられて。

「ははは、冗談がお上手ですね! ここは、『ヴェクサシオンの街』の病院ですよ。あなたを引っ張り寄せてみたら、意識不明だったもんだから、急いでここに運んできたのです。まあ、なかなか良いところでしょう?」熊男は笑みを浮かべた。

「もっとも、あなたにはまだ、状況が呑み込めないのも仕方ないことです。あなたは、なにも知らないのだから」熊は真面目な顔つきになった。

「そういう私も、そんなに多くを知っているわけではありませんがね!」

「いろいろと聞きたいことはありますが、まずお聞きしたいのは……ここにはあなた一人なのですか、ミスター? 他に誰か、ぼくの脈を量ってくだすった人がいたはずですが」恐る恐る青年は言った。

「ああ、その人は、医者です。彼なら、あなたが飛び起きたときに、そそくさとここから出ていきましたよ。恥ずかしがりやなんですよ……それと、私のことは『市長』とでも呼んでください。この街のおさをやっております」熊は言った。

 なぜ町長でなくて市長なのか? それはマネージャーにはうかがい知れないことだった。

「そうですか、市長! それでは、よろしくお願いします。ぼくのことは『マネージャー』で結構です。いや、これにはワケがありまして……そう、人がぼくのことをさんざん『マネージャー』と呼ぶので、とうとうぼく自身が本名を忘れてしまったのです!」

 青年は苦笑した。

「なるほど。了解! マネージャー殿。それでは早速、参りましょう」そう言って微笑し、市長はマネージャーに立つよう促した。

「参るって、どこに?」彼は立ち上がって、大きく欠伸をした。「失礼」

「街を案内しましょう。あなたを危険な目にあわせてしまいましたから、せめてもの罪滅ぼしです」

「じゃあ、ぼくの足を引っ張って、ここまで連れてきたのは、あれはあなたなんですか?」

 青年は混乱してきた。

「……とても人間業とは思えない」

「ああ、そうです! ま、まあ、市長の権限ってやつでね、それくらい、お茶の子さいさいですよ。いやあ、申し訳ないことをしました。……あなたの力が必要だったのです!」

「ぼくの力? 一体どういうことです?」

『ぼくには、隠された超人的な力があるのか?』

「あなたが沐浴していたあの泉――あすこはとても「神聖」な泉なのですが――あの泉に、汚らわしい誰かが、口をつけたのです。歪な精神の持ち主です。恐らく他の世界からやって来て、なにかよからぬことを考えている……心当たりはありませんか?」

「そいつこそ、ぼくらが追われている、いや、追っているのかな……とにかく、見たことはありませんが、憎むべき敵です、恐ろしい奴だということは知っています!」

「そこで、あの泉を訪れたあなた――とてもわかりやすい心の持ち主ですね――いや、失礼――あなたが何か事情を知っていて、解決策を案じてくれるのではないかと。つまり、奴をこの世界から追い出してくれるのではないかと……実は、この街では近々、大規模な祭りが予定されていましてね……伝統の、大切な祭りなのですが。そこに、怪しい輩が現れて、すべて台無しにしてしまったら、トンでもないこと、私の面子も丸つぶれです」市長は神妙に言った。

「なるほど、少しだけわかりました!」マネージャーは目をパッチリと見開いて言った。「つまり、このぼくに悪魔退治をしてほしいと、そういうわけですね?」

「その通り!」

「それは無理!」

「なぜです?」

「こわいからです、元はといえばぼくたちは奴らから逃げていたのです!」

 青年はいままでの経緯を説明した。突然訪ねてきた先生に引きずられるがままに、この世界に来てしまったこと、そしてはぐれてしまったこと、無断欠勤して、禿げた編集長がなんというかわからないこと、などなど。

「こまりましたね、それは!」熊は眉をひそめた。

「どうしたもんかね……では、その『先生』とおっしゃる方は、今、悪魔どもを追っかけているのですね? それは頼もしい。その方が退治してくれることを祈りましょう。おお、神よ」

 市長は真顔で祈った。

「ところで、ぼくはどうすれば?」青年は恐る恐る訊ねた。

「よかったら、ぜひとも、街を案内してほしいんですがね……せっかく来たんだし」

 いくら現実的な青年とはいえ、やはり好奇心には勝てないのである。

「もちろん、もちろんです! さあ、行きましょう」

 熊はにっこり笑った。


 夕暮れの街はにぎわっていた。テレビや写真で見る異国の歴史ある街のような、古風な建物、それに混ざって近代的な建築物、そしてとめどない喧騒。

 衣類は返された。マネージャーは新品同様きれいに洗われた服を着て、市長の案内を受けながら、大通りを歩き回った。《賑やかなところだ、まったく! この世界には人っ子一人いないかとも思われたのに、ここには人、人、人、人の山だ。様々な人にすれ違う。少年、中年、老人……。ここも変わらない、何も変わらないんだ。ここにはここの、平和な時が流れている。この平和を、悪魔どもに、滅茶苦茶にされてたまるか!》彼の心は純粋な正義の炎に燃えた。そう、彼には無意識の英雄願望があるのである。現実家の顔と英雄に憧れる無意識――これがこの単純な青年の唯一のこみ入った部分であった。

 と、青年の脇を、男が通り過ぎる。上等な外套を羽織った、背の高い男。歩き煙草だ――男はこの人ごみの中、平気で煙草をふかしていた。もしかして、こいつが悪魔か? 青年の直感がそう告げる。よく観察しようとしたが、群衆に紛れてしまった。……それにしても、危なっかしいったらありゃしない!

「ちょっと、ここらで用がありますので、待ってていただけますか? 適当に暇をつぶしていただくということで」熊市長が言った。返事を待たずに大きな建物の中に入ってゆく。郵便局だ。

「わかりました。ごゆっくり」熊の背中に声をかける。さて、どうしよう?

 青年はぶらぶらと商店街を歩いた。香辛料のきいた肉やら、新鮮で鱗が光っている魚やら、丸々太った野菜やらが、店頭にうずたかく積まれている。「安いよ! 安いよ! 買ってけドロボウ!」威勢のいい声が飛び交う。彼はすっかり魅了されて、真剣に商品を物色し始めた。物珍しい品ばかりだし、こうした人気ひとけのある場所にいるのは久しぶりだったので、神経が昂ぶってしまったのである。

 そのうち、郵便局から遠く離れて、裏路地の方へ来てしまった。路地は毛細血管のように広がり、果てもなく続く迷路だ。人気も、だんだんとまばらになってきた。心が落ち着いてくるとともに、逆に体は疲労を感じるようになった。いままでになかったことだ。なにかよくない前触れだろうか? と青年は思った。

 壁伝いになんとか元の道に戻ろうとする。空が狭い。もう夜だ。

 突然、誰かが彼の右手をつかんで、強く引っ張った――――

《おいおい、今日はやけに引っ張られる日だな!》

 建物の間の細い隙間に連れ込まれる――口を強く抑え込まれる。

 マネージャーが必死に抵抗すると、相手は意外にもすんなり力を抜いた。

「やはり、こういう手荒な真似は私には合わないよ、宮田! それに、ルール違反をしてしまったな」その人物はなぜか少し愉快そうに(そして青年ではない誰かに)呟いた。

 声の主を見る。それは、暗闇にもぼうっと浮かび上がる、青白い顔をした、背の高い、黒い外套を羽織った男。まるで亡霊のようだ。さっきの歩き煙草によく似ている……。

 それよりも、今、この男、宮田と言ったか? 先生から聞いた、悪魔の片割れの名前。まさか、こいつが――――

「はじめまして。……君は神と一緒にいた人だね? おそらく、マネージャーか何かだろう? 今は独りでいるのかな? それは好都合、好都合。いや、いきなり乱暴なことをして申し訳ない。大声を出されると困るのでね」

 男は仮面のような表情のまま話しだした。続けて、

「私は盥屋、君たちの言うところの、悪魔だ。といっても、君たちが思っているほど大したことはない、小悪魔だがね。フム、もっと正しく言えば、君のにとっての……そうだ、『先生』と言えばいいかな?……その息子……のような者ですな。どうぞよろしく」

「ああ、どうも……お噂はかねがねうかがっております……」青年は相手の丁寧な態度に、妙な気持になって、小さく頭を下げた。

「そうです、僕は先生のマネージャーです。こちらこそよろしくお願いします」

 悪魔の片割れと不幸な青年はこうして出会ったのである。

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