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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第二章

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17/22

 走りながら、小説家A、もしくは神は思う、走馬灯のように、おのれの半生を。 

 文壇をとりまく状況はグロテスクだった。利害は錯綜し、頽廃のムードが全体を覆い、誰もが誰かにおもねっていた。彼はそんな「ばっちいたまり」に背を向けた。

 孤高のポーズ。孤低? そういった方がいいかもしれない。

 確かに。ともかく彼は書いた。描いた。夢を。希望を。理想を。けれど黙殺された。失笑を買った。彼はずたずたにされた。一度ではない。けれど彼はめげなかった。

 彼は多くの短編集と、二、三の長編で知られていた。稀に詩も書いた。まあ、やっぱり売れなかったが。

 最近では、マネージャーもついた。はげた編集長の使い走りの青年。彼はすっかり大物らしくなった。おかげさまで、立派な家も建った。……悪魔の魔手によって燃えたけども。

 燃え尽きた。彼はこの頃そう感じていた。創作のための力が、光が、ヴィジョンが、彼の全身から消え失せていた。ルネ・マグリットに、鳥の巣の上に卵と蝋燭がある光景が描かれた絵がある。創造力とはそんなものだ。巣の中の、卵を暖める蝋燭の火はもう消え失せた。……暖めない限り、いつまでたっても卵は孵らない。あたりまえのことだ。

 いったい、どうしたというのだろう? 結婚でもしてみるか? いや、やめておこう。そんなに簡単な話でもない。

 ほかの同時代の作家たちは、相変わらず新作をバンバン書きあげる。だが、面白いかどうかは別として。創作とは自分のために行うものだ、本音を言えば。読者は新作を待ち望んでいる。

 誰が書くんだ? 私が、奴らが言うところのこの『神』が書くしかない! なんだと? われながらふざけているのか? ハハハ!

 おや、なんだか今日は頭がさえているな。追われる側から、追いかける側に変わったからかな? おかげでずいぶんと楽になった。誰かを追うのは気持ちがいい。なんだか、狩りをしているみたいだ。でも、この狩りはなんだか終わらない気がする。

 宮田のやつを追い詰めて、どうする? 追い詰められた奴は、また牙をむいてくるんじゃないか? 役目を交代して、また狩りのやり直し。これじゃ、仮初の狩り、か。うんざりする! なにが目的で追われているのか、追っているのか。私には皆目見当がつかない! 

 また、パソコンの前に座って、とりとめのない夢想を綴りたい。綴り続けたい。紡ぎつつけたい。物語を。……自分はなにを言っているんだ? これじゃあばっちいたまりに漬かってたほうがマシじゃないか……。

 とにかく、奴を捕まえて、話を聞こう。じっくりと。こっちにも言いたいことが山ほどある。なんせ、私が創った存在なんだから。少しはイニシアチブをとっていいじゃないか?

 ところで、もう一人の方はどこだ? どうやら、一緒じゃないようだが……まあいいさ、そのうちひょっこりと出てくるだろう。

 それに、二人いっぺんに相手をするのはつらい。疲れるだろう。マネージャー君がいれば別だが……いつの間にかはぐれてしまったようだ。やらかした!……まあいいさ、彼なら、そのうちひょっこりと出てくるだろう。……ひょっこりと……。


 あらゆるものが日に照らされている。いい加減な造形の岩、ひしゃげた枯れ木立、機械仕掛けの玩具と見まごうような甲虫の這いつくばるやつ、どこまでも広がる砂のカーペット……ここは砂漠。茫洋たる砂の海。

 神は宮田を追いかけ、陰気な森を抜け、いつかの山を越え、どこかの砂漠を駆けていた。もう辺りには誰もいない。宮田の姿も、何処に消えたか、見えない。鴉がどこかで鳴いている。鴉は好きじゃない。黒猫みたいに、不吉だ。E・A・ポーが言うには、あいつらは「ネヴァモア! ネヴァモア!」とないているらしいが。それにはなにか、高尚な意味があったはずだが、忘れた。鳴き声に意味なんてあるか?

 彼はあてもなく砂漠を彷徨った。

 照りつける空の下、鴉の鳴く声がする以外、他の生き物の姿かたちとてなく、むしろ毒蛇の一匹もいれば、彼は懐かしさに胸を一杯にしたであろう。それほどまでに生命の存在が希薄であった。

 なにか得体の知れない爬虫類の骨や、ぎらぎらと光を反射する甲虫の殻などが時たま砂にうずもれているのを眼にするたび、Aは言いようのない罪悪感に苛まれた。一体に、この世界には生命の循環がない。死んだものは砂となってゆき、新たに生まれ来るものはいない。ただそこには物体が微小な粒子に成り果ててゆく一連のプロセスがあるだけだ。

 ここは、あの宮田たちのいた世界に似ている。ただすべてが砂になっていくだけの、虚しい世界。このような空虚な世界を作り上げてしまったのは、私の乏しい想像力と、創造に対する無責任さではなかったか?

 ……もちろん、単なる遊戯こそ創造の源の一つであることは間違いないから、この胸の苦しみは本来無用のものであるはずだ。しかし、あの怪紳士たちの言い表しようのないグロテスクさと、薄気味の悪さ、そしてこの不毛な大地を彼らが確かに踏みしめたのだという思いは、彼の心の底に澱の如く沈殿した。

「私が彼らを創り上げてしまったのだ。責任はとらなくてはならない」Aは独り呟いた。

 そのとき、神はただならぬ気配を感じて、空を見上げた。頭上に、なにかが飛んでいる。鴉ではない。白い、真っ白な、純白の、大きな、美しい翼。それが生えているのは、人の体。

「天使だ!」神は叫んだ。「本物の天使なんて、生まれて初めて見たぞ!」

 天使は悠々と空を飛んでゆく。「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉の鳴き声がまた聞こえた。神はそんなものにはかまわず、天使を追いかけて走った。

「おおい、ここだ、ここだ!」声のかぎり叫ぶ。「ここだよ、おれは! 助けてくれ! 手伝ってくれ! 悪魔を、退治するんだよ!」

「おれは、神だ! 神なんだ! だから、どうか、助けてくれ!」と、ついつい道理に外れたことを口走る。

 天使に叫びは届かなかった。だが別のものには届いた。ちょうど、天使のことを恐れて、近くの手ごろな窪みに身を隠していた悪魔の片割れ――宮田望その人である。

「おい! おれを退治する、だと? すいぶんと大きく出てくれるじゃねえか!」彼は怒りのあまり顔を赤黒くしながら窪みから飛び出した。彼は神に追われていたはずでは? ……しかし、彼の心は秋の空のように変わりやすかったのである。

「おうよ! でたな、この、あくたれめ!」神も若干、おかしなテンションになってはいたが、とにかく吠えた。

 両者は向き合う。そして思う。こいつ、こんな顔してたっけ。

「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉がけたたましく鳴く。

 こうして、神と宮田の世にも奇妙な一騎打ちが始まったのである。

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