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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第二章

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『皆さん、おはようございます。さあ、新しい朝です。新しい朝がはじまりました。本日もいい天気です。皆さん、おはようございます……』

声は淡々と同じ文句をくりかえす。

 白い柱の上に取り付けられた拡声器から、おちついた、それでいてそこはかとなく上機嫌な男性の声が、あたりの空気が振動するほどのかなりの音量で聞こえてくる。まるで、空高くまた地中深くまで響き渡らせようとしているかのように、拡声器はただひたすら端正な男の声を周囲に伝えている。

 しかし、少なくとも、盥屋の耳に不思議とやかましくは聞こえなかった。はたしてそれは彼がいま、孤独であったからだろうか? 否、そうではあるまい。彼は考えた――《おそらく、この声の読み上げる文句がいいのだろう。朝。一日の始まり。朝をたたえる言葉。朝は好きだ――そこには何もないから。朝には過去がない。まるで私と宮田のように――それは素晴らしいことだ! ただ未来のことだけ考えていればそれでいいのだから――そして『いい天気です』――とは! たとえば、雨は憂鬱だ。おそらくそれはあまりにも私の気質と似通ったところがある――だから、同族嫌悪してしまう。それにひきかえ、この声は希望に満ちた明るい宣言を伝えている。何一つ、何一つとして私を暗い気持ちにさせない、福音にも等しい言葉を。いま、私はついている。ラッキーだ。この運が逃げてしまわなければいいのだが!》

 盥屋はしばらくうっとりと柱に寄りかかり、恍惚にひたっていた。足で何やらトン、トン、と拍子をとる仕草さえ見せていた。彼は自らの観念世界に閉じこもった。やがて(それが流れたのはほんの数舜かもしれなかった)『放送』は終わり、声はぴたりと止んだ。

《もう終わりかな。残念だが朝は短い。本当に短い。しかしそれも仕方がないことだ》盥屋はそう考え背筋をのばし、迷路の出口をぬけたさきにあったこの奇妙な「しゃべる柱」と別れを告げ、この寂しげに腰まで届く丈の草原から遠くかすかに見える『街』にむかって歩きだした。

『街』と彼が思うのも、ただの勘。それは四方を大きな壁で囲まれていたから、あるいはどこかの軍隊の駐留する巨大な厳めしい要塞かもしれなかった。

 だが盥屋の優れた視力は、その壁の一方にある大きな門に一人の門番も確認しなかったので、彼は、それがおそらく、自由に出入りできる大規模な街であると考えた。

 彼には行くあてなどなにもなく、また特に明確な目的もなかった。ひょっとしたら、神か、その相棒がいるかもしれない、遠くに見えるその街に行く以外、することもなかったのだ。先々のことはそのあいだに考えることもできる。

 彼はゆっくりと草を踏みわけ道なき道を歩んでゆく。

 頭では、あの冴えない作家――神のことを考えていた。

《あの男が神、か》ふんとひとつ鼻を鳴らす。

《彼の職業とは、つまり、売文業。ありもしない『大衆』という偶像に対し稚拙な技巧でなんらかの『精神』や『物語』をでっちあげ、流布する、思考存在最後のパラドクス。紙に印刷された文字は蝋燭にゆらめく魔性の踊りで読み手を幻惑し、彼らが思ってもみない・また考える必要のない些末なあれこれを、おせっかいにも胸の奥にざわつかせる。まるで台所の油虫のように。精神とやらを獲得した大衆は新たな『言葉』を求める。麻薬のように。そして最終的には空疎な言葉に踊らされる。犬のような人間が無数に出来上がるというわけだ」彼は酔ったように考え続ける。「まったく稚拙、まったく愚劣!……だが、それによって生み出された私と宮田とは、いったい何者なのだ? ひょっとして、いわゆる〝言葉の綾〟、単なるちっぽけな誤謬に過ぎない存在なのではあるまいか? だとしたら、己の存在をしっかりと地に足つけた状態にまで確立するためには、あのような愚かな(そう、救いようもなく愚かな)神でさえ認めなければならないと? おおっと! なんたる皮肉な運命……だが、その『真実』の残酷さに気づくことができるほどには、私は賢いようだ……もっとも、宮田の奴はどうだか知らないが》

 小さくため息をつき、盥屋の思索は宮田望の方向にむかう。

《宮田! なんといっても哀れな男よ。私にはわかる、彼は、自分が神だと思っている、あるいは神になりたいと。神を憎みながらも憧れる、あの哀れな道化! しかしそれが一体に、叶いうる夢なのだろうか? 彼が一篇の小説、一篇の詩でも書けるならば、いやしくもひとりの創造者であるならば話は別だが(たしか、そんなものを書いていたような気もするが……)、彼は神というにはあまりにも道化た道化だ。もしも、道化が神になったとしたら、その被造物たちは混乱し、世界は『混沌の坩堝』と化すだろう。当たり前の話だ。であるからして、彼が神になるなんて、どだい無理な話なのだ。本当は。だが彼には、『無理な話だ』とも言いきってやれないところが、私の甘さ。なんたって、われら二人、これでも、〝血を分けた〟兄弟なのだから!》

 盥屋は突然ペシャンコになったように肩をだらりとぶら下げ、立ち止まった。まるで枯れたまま千年間ほど死に続けている木立のように、絶滅した時のまま繁栄の夢を観続けている古代生物の骨のように、彼は彼の中に閉じこもり屹立していた。その姿はもはや本質ではなく、本質の影だった。だがそれを取り囲む『世界』さえ、やはり一種の影であるのではないか? そのような自問自答を観察者に与えかねないほど、盥屋の寂寞たる静止状態は周りの空気を、大地を、あらゆるものを、歪んだ風景(ヴィジョン)へと腐食させていた。

 やがて無限のような時間が彼の観念の世界で過ぎ、また意識は形而下へと戻った。観念の世界での無限、現実にはそれが一瞬でしかないとわかると、全てがなにかすこぶる可笑しいことのように感じられ、やはりほんの一瞬間、ナイフで薄く入れた切れ込みのような微笑を、仮面のような相貌の上に見せた。同時に、周囲の全ての景色が彩りをとりもどした――まるで、首を絞められ窒息しかけた者が、不意に喉を締め付ける手を緩められ、たちまちなけなしの生命力で再び精力を漲らせるように。

 そして男は溶けかけた氷がもういちど凍りだしたかのごとく、背筋を少しばかりのばし、厳かに全身へ統一した命令を下し、その力でもってゆっくりと歩き出した。

 もはや、先ほどまで福音を甘く囁いてくれたあの拡声器の方など、振り返りもせず。


 太陽が眩しい。

 足元を、地表に縫い付けられた自分の影を見ながら歩いていると、不意に、天に向けた首にぞわぞわとした奇妙な感覚を覚える。

 盥屋は空を見上げた。

《―――――鴉か》

 漆黒の(当たり前のことなのだが、なぜかその黒さが際立っていた)、老いた鴉がゆっくりと太陽を遮るようにして盥屋の頭上を飛んでいた。

一般的なそれよりもひとまわり大きな、威厳のある、あたかも鷹やら鷲のような風格のある鴉である。そして何より特筆すべきは、その異形――三本の脚をその怪鳥はもっている。

 盥屋はそれに気づいて立ち止まり、悠々と盥屋の進んできた方向から街の方へ、羽ばたいてゆく鴉の姿を見送った。

 やがてそれは街を通り過ぎ、遥か彼方、大気の層が厚くなり覆い隠す距離に消えていった。


《あれは一体なんだ? 少なくとも、普通の鴉ではない。三本脚の、なんといったか、そう、八咫烏か――鴉と似て非なるもの。奇妙なものは多く見てきたが、あそこまで奇天烈なものは初めて見た、いや、まさか実在するとは》

 そこまで考えて、彼は顔を歪めた。

《実在? フィクションの産物たる私がなにを言っている? それに、その実在する世界とはいったいどこのことを指しているのだ? まったく、呆けているな》と自嘲気味に笑う。《あの鴉の身体に蚤がたかっていようがいまいが、関係のない話だ!》

「この世界で起きていることなど、私には何もわかりはしない。同じように、私の考えていることなど、ほかの誰にもわかりはしない。そして、どこにも出ていくための扉はない。望みの光さす窓さえも。この世界という牢獄……」盥屋はそうつぶやくと、また歩きはじめた。なにかを確信したように、先ほどより歩調を強めて。

 まだ壁は遠い。

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