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地面はとたんに泥濘となって、執拗に足をすくう。まるで悪意を持っているかのようだ。たまらず必死にもがく。もがいたおかげで、服がすっかり汚れてしまった。
《この組み合わせ……けっこう気に入っていたのに!》
だが、今はそれどころではない。マネージャーは起き上がると、すぐさま駆けだした。
しかし、森は信じられないほど鬱蒼としていて、方向感覚をむちゃくちゃに狂わされた青年は、実は神の向かった方角とは全くあべこべに進んでしまっていた。
絡みついてくる蔓草を掻き分け、掻き分け、なんとか「先生」に追いつこうとする彼であったが、かえってその距離を広げていることにはまったく気がつかなかった――それも無理はない。彼の頭はすっかり動顛していたのだから。
「先生……先生!」彼はありったけの声で叫ぶ。しかし返事などあろうはずがない。先生は、遥か遠く。
《くそっ先生はどこだ。どこに行った。……どうしてあんなに慌てていたんだ? なにがあの人をあそこまで駆り立てたんだ? ……わからないことだらけだ。とにかく、離ればなれになるのはまずい。早く先生を見つけなければ!》
彼はむちゃくちゃに動顛しながらも懸命にそんなことを考えていた。
やがて雨も止んだ。
マネージャーはへとへとに疲れてしまった(彼の精神が疲労したため、肉体もまた疲労したのだ)。体中の筋肉が固くこわばった。
一休み……一休み……どこか休めるところを心が求めていると、やがて、小さな、きれいな泉にたどりついた。例の、宮田が喉を潤した泉である(もちろん彼にそんなことは知る由もない)。
《こりゃあいい感じの泉だ。助かったぞ! 服も汚れたことだし、少し休んでいこう。先生のことはちょっとのあいだ後回しだ。まずは英気を養うべし》
まずは少しだけ、水面に口をつける。喉が渇きすぎていたのである。
……甘く、心地よい喉越し。
《よし! これはいい水だ》
すでに空からはあたたかな木漏れ日が降り注いでいる。
マネージャーは服をすっかり脱いでしまうと、小さな泉に足をひたした。なぜか泉の水はなまぬるかったが、スコールに冷えた体にはそれが心地よかった。
泉は案外に深く、ちょっとかがめば全身をすっかりひたすことができた。湯船のように泉に浸かりながらマネージャーは考えた。《このわけのわからない世界にも、小さな天国はあるじゃないか。この場所を先生にも教えたいなあ。きっと喜んでくれるだろう……一人はやはり心細い。も少し浸かって、服を洗ったら、また先生を探しに行こう。あの人の身になにかあるかもしれないし。……なにかあったら、僕はクビだ。あの鬼編集長め……いやいや、仕事どころの話じゃないんだ。これはいわば僕の使命だ!》
青年が勇んで思わず右手を高くつきだすと、突然、左足を誰かにひっぱられたような気がした。気のせいかとも思ったが、また、ぐいとひっぱられる。彼はふいに恐怖に駆られ、足をばたばたと動かした。だがひっぱってくる「何か」は抵抗にかまわず今度は彼の両足を強くつかみ一気に泉の底へ引き下ろした。いきなりたくさんの水を飲んだマネージャーの意識はそこで暗転した。
夢の中で、彼は鳥だった。
鳥? 僕は水の中に沈んだんじゃなかったのか。いまの僕の境遇は、どっちかっていうと魚に近いはずなんだけど……。
あ。もしかして、いったん死んでから、生まれ変わったのかな?
こりゃいい。飛んでる、飛んでるよ。身体に重さをこれっぽっちも感じない、僕は間違いなく、重力から自由になったんだ。すいすいと風を泳ぐ感覚は、例えようもなく気持ちいい。眼下に見える景色は水彩画のように霞んでいる……たとえ死んでも、いいことはあるもんだなあ。
でもこの身体、なんだか少し変だぞ。まず翼が真っ黒だ。それだけじゃない、身体中が真っ黒。僕は今、カラスかなにかなのか?
それに、脚の感覚が「一本多い」。どう考えたってこりゃあ三本脚だ。おまけに飛んでいる高さもハンパじゃないし、スピードも普通の鳥に比べたら断然早い。さっき遥か下の方にのろのろと飛んでいく小鳥の群を見かけたばかりだ。
おかしいこれじゃあまるで自分が幻の鳥になってしまったみたいだ。神の使いだという、あの伝説の鳥に……おや? 誰か話をしている……。
「……ひょっとして、彼は死んでいるのか? ちょっと乱暴だったかな」のんきな声がする。
誰かがマネージャーの脚、ではなく手を取って脈を診た。とても冷たい手で。彼は少し身震いした。
「いえ、彼は生きています。気を失っているだけです……」冷静な声がそれに答える。
青年の耳に最初に入ってきたのは、そんな静かな会話だった。彼は飛び起きた。『そう、僕は死んでない! ……そして、ここはどこだ?」というようなことを叫ぼうとしたが、かすれて声にならない。のんきな声が語りかけてくる――
「おはよう! 旅人さん。寝覚めはいかがかな? ようこそ『ヴェクサシオン』の世界へ」




