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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第二章

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14/15

 道の先には扉がある。まさしく扉だけが立っていた。裏に回ってみても、そこにはなにもない。おそらく盥屋も今ごろおなじ物を眼にしているにちがいない……と考えながら宮田はためしに扉を開け、一歩足を踏み入れる。

 突如まばゆい閃光、ゼンゴフカク、アイマイになるカラダのカンカク……まるでみず知らずのだれかに身体をのっとられゆくかのような不気味で無様な感覚。

《チェッ! きにくわないなこりゃ。俺だって人のことを言えないほどの超現実的存在だが、こういう超現実的な体験ってのはどこかウサンくさいところがあるぜ。まるでコドモ騙しだ、馬鹿にしてやがる》

宮田は堅い豆を噛みつぶすかのように歯軋りした。彼にとり超現実的な現象とは近親憎悪の対象でしかなかった。

 やがて完全にうしなうみずからの身体の感覚。はてしない虚脱。くわえて、夢と(うつつ)のあわいをすりぬけるかすかな満足。転移が終わる。

 宮田の目に飛び込んできたのは、ゾッとするほど荒涼たる風景だった。思わずうしろをふりかえる。だがそこにはさっきの迷路のあとかたもない。深くため息をつき、周囲をみまわす。

 ……まるで月のクレーターのような乾ききった窪地だ。あたりには生命の痕跡がみあたらない。枯れた木々がまばらに立ち、いっそうの侘しさをかもしている。

 一つの枝に、名もしらない、しれようもない鳥が止まっている。ちらとみためは鴉。しかしその足は三つ。

《ウウム。ヤタガラスだ。空想の生きもの。ふん……》

宮田は憎らしげにその怪鳥を見やった。まるで血をわけた相手を見やるような生々しい視線。

どこだここは。まったく、と乱暴に独りごちた。

「まあ、どこか、とんでもないところにとばされるだろうってことは、こちとら重々承知の助だったけどな! それにしたって、こんな辺鄙な、地獄の最果てみたいなところじゃなくてもいいじゃないか? なあ? カラス君」

 宮田はそう怪鳥に呼びかけたが、鴉は知らぬ存ぜぬの風で、その三本足でただじっと枝にとまっている。大げさに舌打ちした後、宮田は窪地の端まで歩いてみた。窪地の中心に落とされた(この表現が適切かはわからないが)らしく、大きな窪みだったので、端まで行くには時間がかかった。もっとも、この世界で時間を気にすることはないことを彼も承知していたから、それについて悪態をつくことはなかった。

 窪地を抜け出すと(クレーターの境を登るのは骨が折れた)、峻厳な山並みが見えた。どうやらここは山脈の一部が何らかの理由で奇妙にえぐれてできた窪地らしく、かなりの高地にいるということがわかった。そして山の麓には、鬱蒼とした森が広がっていることもわかった。

《けったいな場所に召喚されたもんだ、まったく! ……とりあえず、神の奴めを探さなくちゃあ》と宮田は考える。

「こんな、変な鳥しかいないところで待っていたって、奴は来やしないだろうな。第一、こっちの気が滅入る! さて、まずはあの森まで降りてみようかね」

 彼は一度決めてしまうと早い。すぐさま「山下り」に取り掛かった。正確に言うならば、取り掛かろうとした。ふと誰かに呼ばれたような気がして、窪地をもう一度振り返ったのである。そして彼はぎょっとした。


 もう遠くなったクレーターの中心、あのヤタガラスのとまっていた枯れ木の近くに、誰かが立っている。


《誰だ? あれは? あれが、おれを呼んだ?》宮田は様々な考えを巡らせる。それを破るように、

「おおい、君、こっちへ来なさい」と、かすかな老人の声が確かに聴こえた。

 かなりの距離である。老人のつぶやきなど聴こえてくるはずもない。だが宮田は声の主が「あれ」だとなぜか確信した。なぜなら、「相対的に」一番近くにいるのは、あの『老人?』なのだから。


 宮田がまた窪地の中心を目指して向かってくる間、声の主と思われる老人は枯れ木の下でずっと立っていた。空には燦々と太陽が輝いている。雲一つない青空。呑気に時は過ぎていく。やがて宮田と老人は対峙した。

 観察すればするほど、奇妙な老人である。

 そこらの枯れ木と見間違うような弱弱しい体躯と裏腹に、細くあけた眼の奥には碧く淀んだ大河のような深い輝きを湛えている。それは彼の持つ生命力と、叡智の非凡なことを示すのに十分すぎるものであった。その顔は、見る人にどこか懐かしさを与える温和な表情と、近づき難い印象を与える幾筋もの峻厳な皺とが対立せず、お互いに複雑に絡み合って存在している密林であった。彼に出会った誰しもがこう思うに違いない……《彼は彼自身の中に我々の想像もつかない、実に豊かな果てしない世界を持っている》と。とにかく、そういった不思議な姿の老人である。

「骨折りですまなんだなあ、ごくろうじゃったなあ」優しげな声で先に口を開いたのは、老人の方だった。

 宮田は機転を制されて少したじろいだが、すぐに、

「いやいや、ご老人。なんのこれしき、大したことはありませんぜ! まあ、あと二三倍の距離があったら、おれも怒ったでしょうが、こんな距離、うちの便所より近いですよ! ああ、自己紹介がまだでしたね、わたくし、宮田、宮田の望と申しますです、はい!」と切り返した。しかし、

「ああ、なにも、道化なくてよろしい。誰もいない、なにもないこの場所では、おぬしと二人きりじゃてな」と諭された宮田は、いきなり声の調子をガラリと変えて、

「では、単刀直入に聞くが、爺様よ、一体全体、このおれに、なんのようですかね? 他人のために時間を使うのは、あんまり好きじゃないんだ、手短にお願いしますよ、あとね」と彼は枯れ木の枝を横目でジロリと睨んで、

「あすこにとまっていた鴉は、どこにいっちまったんですかね? たしか三本足の、汚らしい鴉だったが。知りませんかね?」と不躾に訊ねた。

「その鴉なら」老人はゆっくりと答えて、

「心配せんでもよい。餌を求めて、どこかに飛び去ったよ。まったく、あんな老鴉でも、腹は空くと見える」と言って呑気に笑った。

《この爺さん、ただものじゃないな》宮田は腹の中で直観した。

「用というのはね、宮田君、君らは、一人になってはいけないということじゃ。それを教えに来た」

「一人に? おれに、盥屋と一緒にいろと? それはどういうことです? 大体、どうしておれたちのことを?」

「いや、盥屋だけではない。あの小説家ともじゃ。あの小説家の書いた物語の中の存在が君らじゃ。君らは、あの作家の物語の中にいるべきじゃ」

「ほうほうほう、こいつは驚いた! あんた、いったいどこまで知ってるんです? おれたちのことを」宮田は邪悪な笑みを浮かべた。そして、

「じゃあ、おれの砂時計を盗んだ奴も知らないかなあ? それさえ戻れば、おれも元の世界に帰るんだけど!」

「それについてはよく知らぬ。あの作家が盗んだのかもしれないし、そうでないのかもしれぬ。そんな小道具のことは、わしは存ぜぬ。とにかく、あの作家に会うことじゃ。それと」老人から突然、表情がなくなった。

「これは大事なことじゃが、盥屋……あの男には気を付けろ」

「あいつに? へっ、もちろん、言われなくても、そうしてらあ! あいつに言いくるめられないように、減らず口では負けないようにね!」

「違う、違う、そうではない。奴は物事をとても深い目で見ている。おぬしよりもっと高い次元の洞察力を持っておる。奴には奴の考え、奴の企み、奴の悩みがある。おぬしがそれを理解するのは難しかろうし、先の話じゃろう。だが、それを忘れるな。あやつはおぬしの考えているより……うむ、まあ、そんなところじゃ」

「わかった、わかった、わかりましたよ! じいさま、さっさと神を探させてくれ。どうせなら、神のところまで連れてってほしいくらいだ!」宮田は煩わしげに答えた。

「ならば、目をつぶってみよ」老人は小さく笑ってから言った。

「ははあ、なにやら、ぼくをペテンにかける気ですな。乗り掛かった舟だ、もう、こうなったら、なんでもしますよ。……こうですかい?」宮田は素直に目を固く瞑った。

「十数えたら、目を開けよ。それとな、もし天使に会ったら、とにかく逃げよ。今のおぬしにはどうすることもできぬ。では、また会おう」

「一……二……三……」宮田は正確に十まで数え、それからゆっくりと目を開けた。


 そこは森の中の、小さな泉だった。その森は、その不気味さからして、先ほどまで見下ろしていた森に違いなかった。あのはげ山の方から清らかな水が滔々と流れ、宮田の足元に小さなたまりをつくっている。彼はしばらく沈黙していたが、やがて独りごちて、

「あの爺さんが森まで運んでくれたのか!」と喜びに口を歪めた。

「ふむ……どうやら、ペテンじゃなかったようだ! あの爺さんが何者にしろ、このことについては感謝しなきゃなあ! まったく、すごい奴だ、底が知れない奴だ! ああ、世の中、底の知れねえ奴ばかり! ……あっちの方に尾根が見えるとすると、だいぶ飛ばしてくれたようだな。ああ! おかしいな、喉が渇いてしかたねえ! なるほど、なるほど、これが『渇き』というやつか! 感じる、初めて感じるよ!」

 宮田は泉に直接口をつけ、その乾いた喉を潤した。むしろ毒かと疑いたくなるような、甘く舌触りの良い水。夢中で貪る……。

 と、にわかにポツポツと雨が降ってきた。すぐにそれはどしゃ降りとなり、泉はあふれだした。宮田は木々の間に逃げ込んだ。と、向こうから声が聞こえてくる。声は徐々に大きくなり、

「あいつだ、宮田だ!」

 ……この声は、間違いない、神の声だ!

 どうやらこちらに向かってくるらしい。本当に? 本当だ! 向こうに、神の野郎が見える。何故か、宮田は駆けだしていた。声とは逆の方向に。これは一体どういうことなのか? 普段は傲慢な人間でも、不意を突かれると蚤の心臓、臆病な姿を露呈することがある。おそらくそういった意識の不可思議の類ではなかろうか? といっても、これは単なる推測でしかないのだが……。

 いずれにせよ、こうして「追うもの」と「追われるもの」とが入れ替わる形になったのである。

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