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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第二章

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13/16

 いよいよもっておかしな世界へ来てしまったものだ、と神と青年は思った。しかし二人とも絶望はしなかった。絶望するためには、あまりにも現実感(リアリティー)がない光景だった。黒い煙を吐くには石炭が足りなかった。そこで二人は結果的に、ただ目の前の問題に対処しようと、それだけを考えることができたのである。もっとも、白い煙を吐くための燃料もどこにもなかったので、手探りでことを進めていくほかないのであるが。

「さて、ではこの時計の針をなんとかして(また)いで、向こう側に行かなきゃならないぞ。空間の果てへ行くために」神はそう言って、大きくため息をついた。

「長針と短針に挟まれたら危ないですね。大回りに行きましょう」マネージャーもそう言って、大きくため息をついた。

 何しろ巨大な時計であって、それを大回りしていくには結構な距離があった。

 空から見下ろせば、この時計が五時一〇分を指していることがわかっただろう。二人は回りきる少し前、一度長針をまたいだ(正確に言えば、文字盤との隙間が大きかったので、そこをくぐり抜けた)。実際にはそこまで危険なことはなかったものの、素早く時を刻んでいく秒針がなぜとなく恐ろしかった。

 そして、なんとかⅫの文字の上に立つと、お互い顔を見合わせほっと胸をなでおろした。

「先生、見てください、いい眺めですよ!」マネージャーが目を輝かせながら言った。

 横ざまになった時計塔の頂点は、まるでバリアフリーを志向しているかのような緩やかなスロープになっており、その先には鬱蒼と茂った森、さらにその先には峻厳な山々が聳え立っていた。

「すごい景色ですねえ。現実にもなかなかないですよ。でも、どうして今まで気づかなかったんだろう?」

「それがこの世界の魔力さ。心が何かに(とら)われている限り、ほかの何かに気がつくことができない」

「なんだか、元の世界でも、そんなことがあるような気がしますね……僕も、この世界に来てから、故郷の世界の素晴らしさに気づきましたよ。なんだかんだ言って好きだったんだな」

「君も、なかなか哲学的なことを言うようになったじゃないか。そう、心はいつも何かに囚われているのさ。恋、仕事、夢、つねに何かにかかずらっていて、そのほかのことに対して盲目で、思わぬところで、思わぬものにつまずいて、転んでしまうのさ。そういうものだ。……さあ、行こう」

「さすが先生、僕の言いたかったことはまさにそういうことだったんですよ!」マネージャーは本当に感激したように高い声で言った。「……でも、その前に、少し休憩しませんか?」

 神もその考えに同意して、二人はⅫの文字の上で小休止をとった。その場に寝そべって、せわしく時を刻む秒針をみつめていた。しかし、二人ともさほど疲れていないことがわかり、この世界の異常さに改めて気づかされたのだった。

「先生、おかしくないですか? これだけ歩いたのに、汗ひとつかかないし、いや、かけないし、足も痛みません、いや、痛むことができません」マネージャーは混乱のあまり少々おかしな言葉遣いで訴えた。

「どうやら、この世界では、体の代わりに、心が疲れていくらしいね。その証拠に、私の記憶はだんだんと曖昧になってきている」

「心が? 記憶が薄れる? それはいったい、どういう仕組みなんです?」

「くわしい仕組みはわからないが、やはりここでは意志の力が重要な役割を担っているらしい」

「自分にはあまり向いてない世界だなあ。僕っていわゆる、意志薄弱ですから」

「そうかい? 君には、案外図太いところがあると思うけどね」

「そうですかねえ?……とにかく、これからは気を強く持たなくちゃならない、ってことですね?」

「まあ、そういうことだね。なにがあっても、落ち着いて、冷静にいなければ」

 そんな会話をしているうち、にわかにポツポツと雨が降ってきた。はじめのうち二人は気にせず話し続けていたが、刻一刻と雨は強くなっていった。

「参ったな、この世界でも雨は降るようだ。おまけにやっぱり冷たい」

「どうしましょう? このままじゃ、風邪をひくかもしれない。命取りになりかねませんよ」

 とうとう彼等は観念して、緩やかな長いスロープを急いで駆け下り、目の前に広がる、鬱蒼とした暗い森を目指した。

「だんだん強まってくる。急ごう!」

「なんだか不吉な雨ですね、舞台の裏方が降らしているような」

 二人が森の境に着く頃には、雨はバケツをひっくり返したようなどしゃ降りに変わっていた。深い森である。見上げるほど高い木々の枝には蔦が複雑に絡んでいる。森の奥の方は、無数の葉に光が遮られてとても暗い。ここなら雨をしのぐこともできるかもしれない。少々、不気味ではあるが……。

「あいつだ、宮田だ!」神が突然森の奥を指さして叫んだ。

 恐るべき追跡者、憎き悪魔、宮田の姿を森の奥、かろうじて見かけたような気がした。

 いや、あるいは気のせいだったのかもしれない。しかしなぜか彼は宮田の存在を確信した。それは視認した、というより、その臭いを嗅いだ、といった方がいいかもしれない不思議な感覚だった。彼と悪魔たちの間には、なにか言葉では言い表せない繋がりのようなものがあるのかもしれなかった。もちろん、そのようなことについて深く考える余裕など、今の彼にはまったく無かったし、そんな絆のようなものを彼が認めたがるはずはなかった。

《ここまで追いかけてきたのか!》神は前方を見据えたまま、しばし黙考した。急激に頭に血が流れ込んだ。《……ようし、いつまでも逃げているのも癪だ、ケリをつけてやる!》

「宮田って、例の悪魔の? どこです? まったく見えませんね。あ! 待ってください! 先生!」

 マネージャーは一心不乱に駆けだした神を追いかけようと足を踏み出したが、奇妙にぬめりけのある木の根に運悪くあたってしまい、つるりと滑って転んでしまった。ひどく膝をぶつけ、じんじんと痺れるので、すぐに立ち上がることが出来ない。

「先生! 待ってください! 僕を置いてかないでください! 一人で行くのは、危ないですよ!」マネージャーの声が森に不気味に木魂した。

 神は宮田の影を追って森の奥深く駆けていった。自分でも信じられないほどの速さで。

 なにが彼を突き動かしたのか?……いかに冷静な人物でも、いったん窮地に陥ると逆上して、突飛な行動をとってしまうことがある。この場合は、そういった心理の不思議な仕組みによるものなのだろう。

 とにかく、神とマネージャー君の二人はここで、期せずして離れ離れになってしまったのである。

 これは一つの別れの形としてみればましな方と言えるかもしれなかった。友人同士の、お決まりの湿っぽい茶番も、白けた会話もなにもない別れだったから。しかしあるいは、降り続く雨が涙の役割を果たしているのかもしれなかった。これがほんのひと時の別れとなるか、今生の別れとなるか、それは青年にも知れなかったが、言い知れぬ不安が彼の心を襲っていた。運良くまた再会できるとしても、それはもとのままの先生ではないような気がした。《怪しげな悪魔どもに誑かされて、理性を失ってしまうんじゃないか? 悪魔を首尾よく退治できたとして、それは悪魔より恐ろしい存在なんじゃないか?》そんな考えが慌てふためく頭にかすかに浮かんだ。

 いずれにせよ、青年はそうとは気が付かなかったが、一種の通過儀礼とでも言えるような運命が神と青年の間に立ち現れ、無情にもその行く道を分けた。

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