第50話「私は、戻らない婚約者ではなく辺境の薬師として名を返されました」
再審の宣告は、王宮の小広間で行われた。
大広間ではない。
舞踏会の夜と同じ場所でもない。
それでいいと思った。
あの夜をなぞる必要はない。
同じ場所で泣き直すために、ここまで来たわけではない。
陛下の前には、三つの証拠が置かれていた。
本物の薬包。
先王印の欠けた型。
セラフィナ様の証言記録。
その横に、オルガ様の布もある。
私だけの話ではなくなっていた。
「リゼット・アルヴェーン」
陛下が私の名を呼ぶ。
私は膝をついた。
「婚約破棄の日、そなたに向けられた毒物製造の断定は、証拠差し替えと虚偽証言に基づくものだった」
静かな声だった。
でも、一語ずつ重い。
「よって、毒師の汚名を取り消す」
息が止まった。
汚名。
取り消す。
短い言葉なのに、体の奥まで届いた。
私は床を見た。
石の模様が少しぼやける。
泣くな、と自分に言わなかった。
泣いても、薬師でなくなるわけではない。
「加えて、第二王子との婚約破棄裁定は不当であったと記録する」
広間がざわついた。
レオンハルト殿下が顔を伏せる。
セラフィナ様は唇を噛んでいた。
陛下は続ける。
「ただし、婚約関係を復するかは、リゼット本人の意思を問う」
部屋中の視線が私に集まった。
あの日と似ている。
多くの目。
息苦しい空気。
誰かが私の答えを待っている。
でも、あの日とは違う。
私は罪人として立たされていない。
私は答えを選べる。
「復しません」
声は震えなかった。
「私は、第二王子殿下の婚約者には戻りません」
レオンハルト殿下の肩が揺れた。
私は彼を見なかった。
見なくても言える。
「私は辺境薬室の薬師です。王弟殿下の命を救い、辺境の人たちの薬を預かりました。その名で記録してください」
沈黙。
それから、陛下が頷いた。
「記録せよ。リゼット・アルヴェーンは、辺境薬師として名を返される」
ハロルドの筆が走った。
その音が、何より嬉しかった。
名を返される。
婚約者ではなく。
誰かの所有物でもなく。
薬師として。
エルネスト殿下は少し離れた場所に立っていた。
私を守る位置ではある。
でも、私の答えを代わりに言う位置ではない。
それがありがたかった。
式が終わると、セラフィナ様が近づいてきた。
護衛が止めようとする。
私は首を振った。
彼女は深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
前にも聞いた言葉だ。
でも今日は、逃げるためではなく、受け止めるための声に聞こえた。
「謝罪は記録されました」
私は言った。
彼女が顔を上げる。
「それ以上は、これからの行動で示してください」
セラフィナ様は泣きながら頷いた。
次に、レオンハルト殿下が来た。
私は先に言った。
「殿下。私に近づく時は、王弟府の記録官を通してください」
彼は立ち止まった。
「……分かった」
それだけでいい。
昔の言葉を重ねる必要はない。
王弟府へ戻る馬車の中で、私は初めて長く息を吐いた。
ラーニャが小さな包みを渡してくる。
「辺境からです」
ニナの字だった。
封を開けると、乾いた薬草と短い手紙。
「リゼット様へ。砦のみんなで読みました。名前が戻ってよかったです。でも薬室の棚はまだぐちゃぐちゃなので、早く帰ってきてください」
私は笑った。
泣きながら笑った。
帰る場所がある。
その事実が、胸の奥を温めた。
けれど、王弟府に着くと、温かさはすぐに冷えた。
ハロルドが待っていた。
顔が硬い。
「リディアの帳面を解読しました」
エルネスト殿下が封を受け取る。
中には、黒帳の写しが一枚。
上部に、見慣れない印。
王冠ではない。
蛇でも星でもない。
空白の円。
名を持たない主の印。
その下に、次の命令が書かれていた。
「王弟エルネストを眠らせよ。薬師リゼットが救えば、記録手として完成する」
私は手紙を握った。
名前は返された。
でも、黒帳はまだ私の名を道具として見ている。
私は、戻らない婚約者ではなく辺境の薬師として名を返された。
そしてその名を返された日に、黒帳の主は王弟殿下の命を次の頁に書き込んでいた。




