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婚約破棄された薬師令嬢は、辺境で毒見役にされたはずが王弟殿下の命を救ってしまいました  作者: はてなるあてな


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第25話「黒沼の水車は、もう回っていませんでした」

黒沼の廃水車は、砦の北にあった。


昔は薬草を洗う水場だったらしい。


今は使われていない。


水は細く、車輪は止まり、木は黒く腐っている。


だから、隠し場所には向いていた。


誰も来ない。


来る理由もない。


「来る理由がない場所に、理由を作るのが帳簿ですね」


私が言うと、エルネスト殿下が少しだけこちらを見た。


「君は時々、怖いことを静かに言う」


「薬師は、静かに怖いものを扱います」


白眠草も、苦殻も、量を間違えれば人を殺す。


でも正しく使えば、人を救うこともある。


怖いものだから、見ないふりをしてはいけない。


廃水車の周囲には、兵が散っていた。


ラーニャが先に中へ入り、安全を確かめる。


「人はいない」


彼女の声が奥から返る。


「でも、最近使った跡はある」


私は水車小屋へ入った。


湿った木の匂い。


古い水。


そして、薄い薬草の香り。


誰かがここで薬材を扱った。


床には黒い水染み。


水車の軸には、新しい縄。


止まっているはずの車輪に、最近触れた跡がある。


「回していませんね」


ハロルドが見上げる。


「動かすための縄ではない」


「吊るすためです」


私は軸の下に立った。


縄の先は、壁の裏へ伸びている。


ラーニャが壁板を外した。


中に、小さな空洞があった。


そこに、黒い帳簿。


本当に黒かった。


革表紙。


黒い綴じ紐。


端に煤印。


ニナが息をのむ。


「これが」


「触る前に確認します」


私は帳簿の周囲を見た。


糸。


細い針。


小さな薬包。


開ければ針が落ち、薬包が破れる仕掛けだ。


白い粉が見える。


「眠らせる薬ですか」


ニナが聞く。


「違います」


私は匂いを嗅がずに答えた。


「これは記録を消す薬です。紙を湿らせて文字をにじませます」


毒で人を倒すのではない。


帳簿を殺す。


それも、この人たちらしい。


「外せますか」


エルネスト殿下が問う。


「外します」


私は銀針で糸を固定し、薬包の下に乾いた布を差し込んだ。


ニナが灯りを持つ。


手は震えている。


でも、灯りはぶれない。


「少し上」


「はい」


「そのまま」


「はい」


糸を切る。


針を受ける。


薬包を布で包む。


仕掛けは外れた。


ハロルドが息を吐く。


「毎回思うが、君の仕事は心臓に悪い」


「私もです」


私は帳簿を取り出した。


重い。


ただの紙の重さではない。


奪われた薬。


倒れた兵。


脅された村。


死んだ薬師。


全部が、黒い表紙の下にある気がした。


帳簿を開く。


最初の頁には、薬材名ではなく記号。


白眠草は「白灯」。


苦殻は「殻」。


香木灰は「灰香」。


銀花石は「銀」。


横には、金額。


納品先。


王都薬師局。


第二王子宮。


王妃宮準備係。


北辺境補給。


そして、見慣れない欄。


「返礼」


人名ではない。


爵位でもない。


ただ、黒い印が押されている。


「この印」


エルネスト殿下の声が低くなった。


「知っていますか」


「父の代の戦時補給印だ」


ハロルドが顔色を変える。


「それは廃止されたはずでは」


「廃止された」


殿下は帳簿を見つめる。


「だが、印章が一つ紛失した記録がある」


紛失。


まただ。


失くしたことにされたものが、誰かの手で動き続けている。


私は頁をめくった。


オルガ様の死の月。


そこには、白灯、殻、薬湯、処理済み。


次の欄に金額。


そして、返礼欄の横に短い文字。


「次薬師、王都より女」


私のことだ。


王都から追放される前から、次の薬師に女が来る可能性が書かれていた。


なぜ。


私はまだ婚約破棄もされていなかった。


王宮薬草庫で、下に見られながら働いていた頃だ。


「私が辺境へ来ることは、偶然ではなかった……?」


声がかすれた。


エルネスト殿下が帳簿を見た。


「誰かが、君をここへ送る流れを作った」


「レオンハルト殿下だけでは無理です」


「ああ」


殿下の目が冷たくなる。


「婚約破棄と辺境送りは、薬材の道を守るためにも使われた」


胸の奥が冷える。


婚約破棄は、私を捨てるためだけではなかった。


私の記録を奪うため。


辺境薬室に罪をかぶせるため。


そして、オルガ様が残した道を塞ぐため。


私という人間が、都合よく使われた。


怒りが湧く。


でも、今はその怒りを帳簿へ戻す。


「証拠が増えました」


私は言った。


「私が辺境へ来た理由も、調べます」


ニナが小さく言う。


「リゼット様が来てくれて、よかったです」


思わず彼女を見た。


ニナは泣きそうな顔をしていた。


「誰かの都合でも、私はそう思います」


その言葉で、胸の冷えた場所に少しだけ熱が戻った。


そうだ。


利用されたことと、ここで人を助けたことは同じではない。


奪われた道でも、歩き直せる。


帳簿の最後の数頁は、切り取られていた。


そこだけ紙の端が新しい。


ハロルドが確認する。


「直近三か月分がない」


「黒帳の主につながる頁ですね」


「おそらく」


ラーニャが外を見た。


「足跡が二つある。来た足跡と、出た足跡。出た方が新しい」


「どちらへ」


「北の旧街道」


旧街道。


今は使われない道。


その先には、王都へ向かう宿場ではなく、国境の商人町がある。


黒帳の主は、王都だけにいるわけではない。


辺境の外にも道を持っている。


その時、外で兵が声を上げた。


「殿下! 水車裏に人が倒れています!」


私たちは駆け出した。


水車の裏。


草の中に、男が倒れていた。


年は若い。


服は旅人。


左腕に、王都薬師局の下働きの布印。


息はある。


口元に甘苦い匂い。


「白眠草と苦殻」


私は膝をつき、薬箱を開けた。


「殺す量ではありません。黙らせる量です」


男の手は、何かを握っていた。


小さな紙。


私はそれを外し、開く。


震える字で、一行。


「モーリスは黒帳の主ではない。主は、王妃宮にも第二王子宮にも命じる」


息が止まった。


モーリスでもない。


セラフィナでもない。


レオンハルト殿下でもない。


王妃宮にも第二王子宮にも命じる者。


エルネスト殿下の表情が、今までで一番険しくなった。


「陛下の周辺か」


私は答えられなかった。


男の脈を取る。


弱いが、まだ救える。


「まず、この人を助けます」


黒沼の水車は、もう回っていなかった。


けれど、止まった水車の下から、王都より深い闇が流れ出していた。

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