初心忘るるべからず
コランダムに帰ってからゆっくりと過ごしていた日々は、長くは続かなかった。
戻って数日したある日の夕食の後、足早に研究所へ戻ったお母様とセレン夫人を見送ると、お父様が満面の笑みで私を見つめていた。
「えっと、お父様? 何かございましたか?」
「フィー、そろそろ退屈な日々を終わらせるつもりはあるだろう? だから、僕が特別にフィー向けの訓練メニューを考えておいたんだ。明日から、共に励もうね」
すでに決定事項だという言葉を端々に入れて、断る隙を与えるつもりのないお父様の決意が見えた。
まぁ、確かに、せっかくコランダムに帰ってきたのならば鍛錬をするのも悪くない。
だが、お父様の訓練メニューは、それはもう……素晴らしいのだ。何が素晴らしいかといえば、容赦がない。これに尽きるだろう。
「商会の仕事もあるのですが……」
「うん、僕も辺境伯と領主としての仕事もあるよ」
「……」
いったい私はどこでお父様の恨みを買ってしまったのだろうか。
まぁ、それはいったん置いておこう。
学園に入ってから時間が無くなってしまったこともあったが、正直、剣に対する意欲をなくしてしまっていたのだ。当時はオニールの婚約者として、果てはフェルスパー商会の仕事をすると思っていたし、普通の令嬢以上の剣術を持つことに意味が見出せなかった。
だが、今は状況が違ってきた。
ランドルフ様の隣に立つ者として、守られるだけで良いのかと思い直した。
とはいえ、お父様直々の訓練メニューをとは、さすがに考えてはいなった。せいぜい、訓練場の隅でと……。
「分かりました。お父様、よろしくお願いします」
逃げられないことは分かっているので、ここは素直に従っておこう。
そんなにすんなりと行くとは思っていなかったのか、お父様は片眉を上げて少し探るような視線を私に向けた。
「向こうで、剣は握っていた?」
「いいえ、王都に移って最初の頃だけです」
「じゃぁ、1年以上、まともに握っていないってことだね」
頷いた私に、お父様はじっと私と私の手を見た。
「分かった。ちょっと方向を変えよう」
方向を変えるという言葉に不思議そうにした私の手を取ったお父様は、そこに短剣を置いた。
鞘には宝石がちりばめられきれいに飾られた宝飾品のようだが、重さはしっかりある。
「これは?」
「フィーは準王族という立場になる。専属の護衛がにいるのに、ドレスで長剣を持つわけにはいかないだろう? かといって、護衛がずっと一緒にいるわけじゃない。必ず隙が出てしまうからね。その時に身を守る術を覚えるんだ」
「だから、短剣、ですか?」
「だけじゃない。体術もドレスを身に着けたまま、動けるようにならないと」
その後、お父様に王宮に入ること、王族となることがどういうことかを懇々と聞かされるのであった。
次の日の朝、訓練用の簡素な騎士服に着替えた私は、訓練場へ向かう。
久しぶりに身に着ける騎士服は、軽くもあり、重くもあった。
王弟の婚約者となることを軽く見ていたわけではないが、正直、それほど重くも受け止めていなかった。身の危険は、辺境の地に身を置くのとさして変わらないと。
しかし、お父様の話は、そんな私の軽い考えを改めさせるには十分だった。
『王弟の伴侶だということで、しばらくは守れるだろう。けれど、いずれ、君が聖女だということは露見する。どんなに近しいものが口を閉ざしていても、聖女の存在自体が国に恩恵をもたらす。聡い者は気づくだろう。国の中枢に聖女というに等しい存在があると。そうなってから備えていては、もう遅い。王族が囲っていたとしても手を出す奴はいる』
『では、どうすれば……』
『自分の身を、最低限でいいから守れるようにするべきだ。すべてを倒す必要はない、助けが来るまで、安全な場所へ逃げられるまで、それでいい』
真摯に頷いた私に、お父様は困ったような顔を返した。
『むしろ、国にとっての脅威は、もしも君が失われたとして、その後に、あいつが狂うことさ』
お父様がその時に何を思っていたのかは分からない。けれど、私は頭の中で、ルキウスを失ったルクレツィアが闇に染まった時を思い出す。
今の私たちにそこまでの情がある確信はない。けれど、もし、今の私が失われたとしたら、あの苦しみを、痛みを、悲しみをランドルフ様に科すことになる可能性があるのだとしたら、手を尽くさないという選択肢はない。
「おはよう、フィー。よく眠れたかい?」
「はい、お父様。今日からよろしくお願いします」
うん、と答えながら、お父様は私の頭を撫でる。
「もう、私はそんな子供じゃありませんわ!」
「親にとっては、いくつになっても子供は子供だよ。それはさておき、久しぶりだろうから、まずは身体が動くようになるまで感覚を取り戻そうか」
お父様の視線の先、今期の新入団員たちが準備運動をする姿が見える。
「あそこで一緒にやってみて。様子を見ながら行こう。身体を壊しては意味がないから」
その言葉に頷いたものの、私の中ではもうちょっと動けるのではないかと思っていた。
が……
「フィー、君は一体、王都でどんな自堕落な生活をしていたんだい?」
一時間後、息も絶え絶えな私を見下ろしながら、お父様は溜息を吐いた。
「わ……私も、ここっまで……と、は」
「うん、ちょっとメニューを見直そうか。どうせ、夏季休暇はずっとここにいるのだし」
こくこくと頷くしかない私は、情けなさでいっぱいだ。自業自得ではあるのに、悔しくて悔しくて仕方がない。
唇をかみしめる私の手を取ったお父様は、ゆっくりと私を立ちあがらせる。
「悔しい?」
「はい、自分がここまで不甲斐ないとは思わなくて」
「じゃぁ、大丈夫だ。現状に満足していないってことだろう? ならば、力を尽くせばいい。あとは、幼いころにセシルたちと一緒に剣を学んだ頃を思い出してごらん。少なくとも、あの頃の君は、訓練場に居るときにそんな切羽詰まった顔はしていなかったよ」
「えっ?」
「フィー、初心に戻れ、だよ」
今日はここまでと、背を向けたお父様はひらりと手を振って去っていった。
ぽつんと残された私は、新入団員たちの気遣うような視線の中で、ぐっとこぶしを握り締める。
「お嬢様、あの……」
「大丈夫ですわ。明日からもよろしくお願いしますね!」
「はい!」
身体の痛みを堪えながら、彼らと共にその場を片付けた私は、訓練場を後にした。
自分の部屋に向かう道すがら、使用人たちがあわただしく動き回る姿を見て、タウンハウスでランドルフ様を迎えた時のことを思い出した。通常のお客様を迎えるのと、王族を迎えるのでは準備の手順や質が異なるから、使用人たちはいつもより忙しくなるのだ。
「まさか……ね」
部屋に戻った私の姿を見て、コナは息を飲んだがすぐに笑顔になりお風呂の準備をしてくれた。
ゆっくりと温かいお湯につかりながら、コナのマッサージを受ける。
「お嬢様、明日は先代夫人がお戻りになるそうです」
「おばあ様がいらっしゃるの?」
「はい、先代ご夫妻の住まいは長年使われておりませんでしたから、今は皆でお迎えの準備をしているのですよ」
おじい様とおばあ様のお住まいだった別邸は、ランドルフ様の留学と共に旅立った時から主人をなくしていた。常に手入れはされていたが、やはり人の住まない屋敷は足りないものも多いだろう。
「随分、長くお留守にされていたものね……」
「そうですね。コナが、お嬢様付きになる前に行かれましたから」
二人が遠い昔に思いを馳せる。
一度は封じられた記憶は、今もまだ鮮明には思い出せない。けれど、お兄様とシリル、レイモンド、そして、ランドルフ様と駆けた日々に、おばあ様の優しい笑顔はいつも共にあったことは覚えている。
「ふふっ、楽しみね」
「はい、コナも楽しみです」
私はおばあ様に会えることを楽しみにしていたが、コナの思いが別にあることなど、私に知る由もなかった。
ご覧いただきありがとうございます。
少しでもお楽しみいただけたら嬉しいです。
感想や評価を頂けると励みになります。




