一週間の猶予を得ました
エリオット様を見送った後、本の続きを読む気分ではなくなってしまった。
けれど、気になることは沢山あって、今はタウンハウスの書庫にいる。
なのに、手にしたのは、この国の歴史でも、魔術や剣術の指南書でもなく、恋愛物語だった。
片田舎の村娘が、国のために戦い傷付いた兵士を救い、心を通わせる。そんなごくありふれた恋の物語。後に、村娘は聖女となり、兵士はその国の英雄となり統治者となった。紆余曲折の後に二人は結ばれる。
めでたし、めでたし……。
聖女になりたいと、ただの夢を語っていた頃に大好きだった物語だ。
ほんの少し前、私自身が聖女で、ルクレツィアであることを知る前ならば、それは純粋に美しい物語として受け入れられていただろう。
しかし、今は、その中に真実が含まれているのではないかと考えてしまう。
「このお話、好きだったのになぁ。なんだか、夢がなくなってしまった気がするわ」
独り言ちて手にしていた本を閉じ、ため息と共に机に突っ伏した。
淑女としてみっともないと、私を叱る人はこの屋敷にはいない。
甘やかされている自覚はある。
婚約のことも。
本来ならば貴族の娘として、よりよい条件の家に嫁ぐのを望まれるはずだ。そう考えれば、王弟殿下に嫁ぐなど、誰もが羨むような話なのだ。
「姉上、こちらにいらしたんですか」
「シリル……どうしてここへ?」
「僕は課題のために……」
数冊の本を手にしたシリルが、私の向かいに座る。
ちらりと覗き見れば、その手にしていたものは戦術書と心理学の本だ。
「あなたも学園に入ったのだから、書斎は必要ではないかしら。私からお兄様に言うわ」
「大丈夫ですよ、姉上。僕が要らないと、先に父上と兄上に伝えていたのです。僕は騎士科ですし、本に囲まれるような生活は、正直あまり……好みません」
「でも、あなた……」
手元の本が意味するところでは、シリルは指揮官を目指しているのではないかと思う。
辺境伯家の次男として、おそらく彼の立場は一般の騎士たちよりも上になるだろう。黙っていてもその位置には行ける。
だが、彼はそれを良しとしていないのだ。
「あぁ、コランダムに居た頃の話でしたら、学園に早く入るためにちょっとだけ無理をしたんですよ。頑張ったかいがありましたので、問題ありません。まぁ、父上と母上の子ですから、元が優秀なんです」
私の視線の先にあるものに気づいたシリルは、茶化したように軽くそう答えた。
なるほど、努力をしていると表には出したくないのだろう。完璧な父と母、そして兄、彼らに追いつこうとしてもがいているのは、私だけではないのか。
そうか、シリルも私と同じだ。
「まぁ、シリル、意外とうぬぼれ屋さんなのね」
ふふっと二人で笑い合った後、シリルはぴんと背筋を伸ばして胸を張る。
その姿は、もう私の小さな天使とは呼べないくらいに凛々しくなっていた。そんな事実に少しだけ寂しさを感じる。
「えぇ、そうですよ。それに、おかげで兄上や殿下の気持ちもよくわかりました」
「お兄様や殿下の気持ち?」
「はい。心にある人と離れなくてはならない。それでも諦めきれない。そんな気持ちです」
えっと、ちょっと待って?
これは、シリルには想い人が居て、ずっと離れて暮らしていたけれど学園で再会してって、そういうことかしら?
天使、私の天使を返して……。
突然もたらされた事実に混乱する頭を何とか落ち着かせようとしていると、シリルは拗ねたように口を尖らせた。
「姉上、僕だってもう14ですよ。殿下はもうこの年には商会を立ち上げていましたし、兄上だって王宮に入っていたんです」
「そうだな。俺もシリルの頃にはエリオットたちに使われていたよ」
「お兄様」
「兄上」
ノックはしたよと、困ったように笑いながらお兄様は私たちと同じ机に座った。
「二人で楽しく過ごして、俺は仲間外れか? 酷いな」
お兄様が学園の入学よりも何年も早く王都に出たのは、ソフィ姉さまの近くに居るためだと思っていた。
幼かったころは、ただそれだけしか分からなかったけれど、今思えば、ソフィ姉さまとの未来のために、すでに足場を固める準備をしていたのだろうと気付く。
そして、今のシリルも……。
「ねぇ、お兄様。シリルに心に決めた方がいらっしゃると知っていて?」
「ちょ、姉さま!」
「あぁ、なんとなく。誰か……というのも大体ね」
「兄さまも黙って!」
「俺を兄さまと呼んだか?」
ニマニマとシリルを眺めるお兄様は、からかうような、それでもうれしいという気持ちが全身から溢れるようだった。
「そういえば、シリルが姉上って私を呼んだときは、もう子供じゃなくなってしまったのねって、寂しくなったわ」
「そんなに年は変わらないじゃないですか」
「そうだけど……。私の天使が遠くへ行くような寂しさ、あなたには分からないわよ」
「それを本人に言うのはどうなんですか……」
やっぱり、口を尖らせたままのシリルは可愛い。
けれど、きっと、もう私の可愛い天使ではないのだ。
そんな私たちのやり取りを眺めていたお兄様は、不意に私とシリルの頭を撫でた。
「二人とも、俺にとっては可愛い天使だけどな。まぁ、シリルも、早く大人になりたかったんだね。男というのはそういうものだよ、フィー」
「納得いきませんわ」
「うん、だから、そういうもんだってことだけ覚えておいて」
お兄様の言葉に深く頷いたシリルを横目に、今度は私が口を尖らせる番だった。
「ところで、フィー。これは俺からの提案なんだけど」
「なんですの?」
「いっそ、王妃殿下のお茶会まで学園はお休みしたらどうだ?」
予想していなかったお兄様の提案に、私はすぐには理解が追い付かずに思わず唖然としてしまった。
「あ、いや、まぁ……フィーも、今はあいつと顔を合わせづらいだろうし、あいつにも、これを機にちゃんと距離の取り方を考えてもらわないといけないと思ってね」
距離の取り方と聞いて、溺愛、威嚇……と、シリルの言葉を思い出す。
途端に顔が赤く染まっていくのが分かった。
「あいつの話をしただけで、その反応かい?」
「おにいさまぁ」
「そんな可愛い声を出してもダメだよ。それでは、あいつを調子に乗らせるだけだ」
「学園ではそんなことには……」
「ならないと言い切れる?」
「……きれません」
「だろう? 今、コランダムの立場は微妙だ。フィーが婚約を受けるにしても、受けないとしても、慎重に行動した方がいいことには変わりない。とりあえず、フィー自身もきちんと考える時間は必要だろうし、情報も必要だろう。王妃殿下のお茶会はいい口実だし、何かを得る機会にもなる。だから、そこまでは戦略的撤退。割といい案だと思うけど、フィーはどう思う?」
確かに、この状況でランドルフ様の前に立ち、私自身が冷静でいられる自信は、やはりない。それなのに、考えを纏めることなど、確かに出来るとは思えない。情報面でも、お父様から渡された本以外、私がこの数日で得たのは、謀らず与えられたものばかりだ。
王妃様が誰を私に紹介したいのか、何を伝えてくれるのかは想像もつかないが、このタイミングなのだから、全く的外れなものではないだろう。
何にしても、今は距離を置くというのは、一つの手かもしれない。
「お兄様の仰るとおりですわね。少し、私自身が落ち着いて考えられるところに身を置きたいです」
「うん、分かった。じゃぁ、お茶会が終わるまでは少し我慢して。シリルも一緒に屋敷に居るように」
「分かりました、兄上」
「俺が手配をしておくから、二人は安心して過ごすといい」
「お兄様、ありがとう」
「可愛い二人のためだからね、兄は頑張れるよ」
そう言って、もう一度私たちの頭を撫でて立ち上がる。ひらりと手を振り、笑顔と共にお兄様は書庫を出ていった。
「ところで、シリル。お相手の……」
「戦略的撤退って、いい言葉ですね!」
お兄様を見送って振り返った先、にっこりと笑ったシリルは、そのまま足早に書庫を出ていった。
そんな姿にすっかり毒気を抜かれてしまった私は、どこか落ち込んだ気持ちが、いくらか晴れているのに気づく。
「戦略的撤退……。さて、私は何をしようかしら」
考えることは沢山だ。
けれど、悲観ばかりもしていられない。
せっかくもらった猶予を有意義に使おうと思いつつ、私はぐっと背伸びをした。
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