呼ぶ声
来た道を辿るように駆け出す。数歩進んだところで、鞘とそれを収めた袋を掴み後ろに投げる。袋は空気の抵抗で減速しながらも狙った場所に飛んだ。
顔面に直撃を受けた猛獣は顔をしかませ、グルルゥと唸った。
「なんだ……」
俺とリミスタの剣は飲み込まれたようだが、あの袋はなんともなかった。溶解液は常に覆っているわけではないのか。もしかすると剣は別の理由でその姿を消したのかもしれない。
止まることなく走り続ける。猛獣は俺とリミスタを獲物と定めたのか他の人間には構わず執拗に追ってくる。猛獣が走るたびに地面が揺れた。走る猛獣の足元は、踏みつけられるたびに穴がうがたれる。どれだけの重量なんだ。
場所が移るたびに悲鳴がそこかしこで生まれる。鬱陶しさしかない。
「あれ何? 魔物?」
走りながら必死の形相でリミスタが尋ねてきた。ここに来るまでの不調は感じられず、躍起な表情を浮かべていた。
俺はリミスタの質問に答えるだけの情報を持っていなかったので、曖昧に答えるしかなかった。
「わっかんねえ。けどたぶん違う。魔物じゃない。魔力とか違うだろ?」
「…………たしかに、そうかも。フエリオの時の魔物と全然違う……」
魔物って……こう、もっと濁ってて気持ちが悪いんだ。でもこいつはまったく違う。
神聖的で高圧的で絶対的。
言い表しようのない畏怖と不安。
マジでなんなんだこいつは。
追いつかれることなく、引き離すこともなく、海水浴場そばの道路にたどり着く。海にその身を触れさせた紅蓮の陽は、海原も空も浜も建物もあまねく赤く染め上げている。
依然として俺たちを追ってくれている白き猛獣は橙に染まり、その色は血のようでもある。己の血で、あの白い毛を染めるかもしれないと考えてしまう。首を振ってそんな余計な思考を振り払う。
「階段使わずに飛び降りよ!」
「おう!」
街から浜へは数メートルの段差になっている。来る時に使った階段をちまちまと降りれば追いつかれてしまうだろう。だから階段を無視し、そのまま浜に飛び降りた。
「っ! 膝にくるなあ……」
「えへへ。だね……」
砂のおかげで着地の衝撃は思ったほどなかった。とりあえずまだ走る足は止めない。遅れて地震かと思うほど大きな揺れが、轟音とともに起こる。
「うおっ」
「わっ」
唐突な激しい縦揺れに体制が崩れてたたらを踏む。すぐに立て直し先へ進んだ。
猛獣が同じように飛んで着地したのだろう。それにしても本当に奴は重いらしい。
「ね、そのまま森に行かない?」
「……そうだな。そうしよう」
リミスタの言う森とは、ガラジオスの森で間違いないだろう。あそこなら、俺たちは土地勘があるし逃げまわりやすい。それに、観光地化している場所にさえ寄らなければ人は居ない。
いくつか猛獣を撒ける場所を考えていると、浜にごみが目立つようになり、さらに遠くに森が見えた。
「ラウス、ここまであいつを連れてきたのはいいんだけどどうすればいいんだろ」
「まったく考えてなかったわ……。そうだな……さっきの街で暴れてたっぽいし、連盟に連絡が入ってるだろ。連盟の応援が来るのを待とう」
「森の中で逃げ続けながら……?」
「そうだな……そうなる。水なら森に川とか湖あるからいいんだけど食糧はどうしようか……」
「湖に魚はいないしお家のそばの畑以外じゃ食べられそうな葉っぱないし……」
ヤバイな。もともと変な森だとは思ってたけど……。動物が一切居ないと食糧に困りすぎる。人間は水だけでもしばらくは生きられるらしいが、走り回るならば体力の消費も多いだろう。何も食べないとなると二週間もなく倒れるだろうな。
陽が沈む。光源がなくなり急激に暗闇が強くなる。
「グルルル……ガルァァアアアアア!」
猛獣が後ろで吠えた。
「一度お家に戻って食料と一緒に武器とか取らない?」
「食料はわかるけど武器は意味なくないか? あいつに攻撃食らわせられないぞ」
「あ……そうだった。……それならどうすれば……」
走りながら話しているうちに森は目の前だった。ためらうことなく森に入る。暗くなってそれほど時間経っていないからかまだすこし夜目が効かない。
「まず、近くに木が密集して生えてるところあるだろ。あそこに誘導して一旦──」
「…………大丈夫?」
元から上がっていた心拍数がさらに上がる。
一瞬状況がわからず思考が飛んでしまった。
どうにか気を取り直し背後の猛獣を見た。暗闇の中でも目が見えているのか、立ち並ぶ木にぶつかることなく器用に走っていた。
「すぐに家に戻ろう」
「……どうしたの? 気分悪そうだよ」
視線を前に向けて、夜の闇に沈んだ森をにらむ。
「とにかく家に急ごう。家に行かなきゃ」
「もしかして呼ばれたの……?」
「…………ああ。誰かが俺のことを呼んでる」
「ヤバいヤバい!」
「どうしよっ! どうしよっ!」
森に入るまでままったく追いつかれることがなかったので、てっきり走る速さはそこまでではないと思っていた。
だが違った。こいつは余裕を持って、俺たちを本気で追い回さなかっただけだったのだ。
猛獣は痺れを切らしたようで、リミスタが数度襲われた。そのたびに俺が間に入って身代わりになった。致命傷はないが、出血してしまっている。服も爪で裂かれてみすぼらしくなった。
「グルァ!!」
「クソ!」
猛獣の前足がリミスタめがけて振るわれる。俺はその攻撃が直撃する寸前でリミスタに体当たりし、根のはびこる地面を転がった。身体中に根が当たり痛む。
敵に追撃を許さぬようすぐに立て直し先を急いだ。魔術で剣を作って応対したいところだが、あれはかなりの集中力が必要となる。遁走と耐久を主とするこの状況での使用は好ましくない。そもそも刃が通るかどうか。
「なあリミスタ! お前狙われてないか?」
「わっかんないよー!」
明らかに狙われてる。というか思い返せば俺が攻撃されたことがない。なんだこいつ可愛い子しか襲わないの? 猛獣ってか野獣じゃん。真秋の夜のなんちゃらじゃん(唐突)。オッスオッス。
ふざけたことを考えている間にも、絶え間なく猛獣の攻撃をかわして防いでしのいだ。正直なところそろそろヤバい。走り続けた疲労が足を重くして患部が痛んで走るのがつらい。
リミスタもまだ素質があるとはいえまだ子供。息は上がっているし、走る姿勢も崩れはじめている。
体力が尽き肉体を切り裂かれるまでは時間の問題だ。とにかくそれまでに家に帰らなくてはならない。
「リミスタ! あれ」
前方に、幹が途中で二股に分かれた木があった。この森でも多くは見られないほどの巨木だ。幹の分岐している部分は、地上から高さ三メートルはあるだろうか。
「あの木の隙間のとこ通ってみて」
「かなり体重あるみたいだし挟まらずに木折っちゃうんじゃないかな……」
意図を説明するまでもなく、リミスタは俺の真意を汲み取っていた。なんだこの信頼関係。素直に嬉しい。
「物は試しってことで。頼む」
「うん!」
リミスタは脱力気味だった体に力を入れ姿勢を正す。そして足の回転数を上げ俺の示した木へ向けて陣風を思わせる走りで向かう。
全速力らしいその走りは、俺では到底追いつけない速さだった。感嘆と劣等感を覚えながらも俺も全力で先を急いだ。これまでの軌道をそれる。徐々に近づく件の木を右から迂回し、先でリミスタの着地を補助するつもりだ。
木の魔法が得意だったら、風で衝撃を分散させるという手もあった。あいにく俺はクソほどの水魔法しか使えないし、リミスタはそもそも魔法が使えない。
「行くよ!」
リミスタが声を上げる。
標的が俺を追っていないか確認すべく振り向くと、猛獣は俺には目もくれずリミスタを追うばかりだった。なんなんだ。
リミスタが力強く踏み込む。足元の根と地面が砕けた。そして溜めた力を一息に開放し跳び出す。地面の木のかけらや地面の破片が舞う。
やや鈍角気味で宙を進むリミスタは、見事に幹の分岐を通過。
「クソ」
一方、猛獣はそれを見越していたのか、リミスタを追って跳ばずに木を俺とは逆の左側に避けた。そのままリミスタの着地するあたりを目指す。
「リミスタ!!」
空中を滑るリミスタが、自身へ距離を詰める猛獣に気がつく。
地面を渾身の力で蹴った。魔力も惜しまず使い猛獣の元へ疾駆する。触れればどうなるか知れない。しかしリミスタへにけがを負わせるわけにはいかなかった。
「一発食らっとけクソ猫がぁああ!!」
猛獣の数メートル前で飛び上がる。右腕を引きしぼり、前にかざした左手を引くのと同時に突き出す。〈魔功〉により強化され〈噴放〉によって威力を極限にまで高められた拳を猛獣の眉間に鋭く放つ。
「ぐっ」
拳は無残に〈魔功〉を破られて跳ね返された。剣のように消されずに済んだのは幸運だった。
猛獣が顎門を開く。鋭い牙が並んだ口腔が目の前に迫った。ざらつく舌やのどがよく見える。死を覚悟した。
覚悟はする。が、死ぬ気は毛頭ない。
そこかしこが千切れかかった上着を、乱暴に引きちぎって猛獣の眼前へ投げた。猛獣は閉口し、邪魔だと言わんばかりに前足でそれを払う。
俺はその足に巻き込まれて、凄まじい速度で飛ばされた。
「ぁああっ!」
右の太ももと脇腹を強打した。激痛が走り一瞬だけ意識が空白になる。
「うっ……クソ……」
「ラウス!」
声がした方を向いた。左足を庇いながらリミスタが走ってくる。着地に失敗し負傷してしまったのだろう。俺がその場で思いついたくだらない作戦のために……。
「大丈夫?」
「ああなんとか。それよりっ!」
俺とリミスタが真逆の方向へ飛び退く。直後、轟音と衝撃をともない白い塊りが降ってきた。
「急くぞ!」
リミスタにひと声かけてまたも走り出す。鼓動と重なるように脇腹が刺々しく痛む。太ももは、右足が地面を捉えて蹴るたびに鈍く痛む。
痛みで思考がままならなかった。
家に急げ。
リミスタを守れ。
そんな単純なことを繰り返し考えながら必死になって猛獣から逃走する。
ふたたびそう並走するリミスタの横顔を覗いた。足の痛みに耐えるべく歯を食いしばり、ひっきりなしに顔の汗をぬぐっていた。
「リミスタごめん。本当にごめん」
「へへっ。いいよいいよ。失敗は誰にでもあるよ! 僕もラウスも生きてたんだし気にしないで」
あっ。ヤバいこれ。どうしよう……。
激しい運動以外の理由で、心拍数が上がり体温が上昇するのが自分でもわかった。
「…………ありがとう」
「そんなことより次どうするか考えよ?」
「そう……だな。了解」
何事も責任の所在を探るよりも、次の手を考える方が建設的で有意義だ。誰の責任かが判明したとしても、それは物事の前進ではなく停滞だ。責任の追及が終われば次は罪をいかほどにするかの話になる。そんなの時間の浪費でしかないだろう。
まあ、こんなこと言う資格は俺にない。被害をこうむり、なおかつ誰からも避難されようのない立ち場の者だけに許された発言だ。
切り替えよう。自責は後からやればいい。
今は走れ。傷が痛いとか疲れたとか甘ったれたことは考えるな。リミスタだって俺より何歳も子どもなのに走って怪我して、それでも俺の言葉を信じてこの先を目指してる。大人の俺が子どものリミスタの手本でなくちゃいけないんだ。
次は何をする。考えろ。
このまま走っているだけではダメなんだ。絶対に追いつかれてしまうから。
だからさっきのように、自ら働きかけて猛獣の足を止めなくてはならない。失敗してもいい。挑戦しなければ死ぬんだ。俺は死にたくない。だから能動的になる。
「……よし」
隣を向くと、同じくこちらに顔を向けたリミスタと目があった。お互いに口元が綻ぶ。リミスタの健気な笑顔は、ずっと痛んでいた体を心から癒した。
俺はまだ屈しない。屈せない。
「あっちの方へ進もう」
「あそこは……」
試したいことがあった。もちろん失敗すればすぐ死ぬだろう。
何度か交戦した。リミスタをかばいながらだったので俺の方が手傷が目立つ。それでもなんとか湖に到着。
湖の広さはざっと反対の岸まで五百メートル。水深は測りようがないが、ジジイ曰くかなり深いらしい。
夜だと湖は真っ黒だと思ったが、白い月光のおかげでかなり明るい。誰でもこういった大きな規模の淀の中には何か潜んでないかと疑いたくなるだろう。しかしこの森にある湖に魚とか生息していない。
湖の中はめちゃくちゃ水生植物が茂っており、浅く潜水するだけでも水中にも森が広がっているのがわかる。
「来たよ! どうするの!」
「お前泳げる?」
「え?」
リミスタの顔がこわばる。あれ、これ泳げない時の反応……だよね? そんなことを考えているうちに、バシャンと飛沫を立てて俺たちは入水(落下)した。
「たっ、助けて! ラウス! ラウスー!」
軽いパニック状態に陥ってしまったようだ。
リミスタはもがき、俺を水中へ押し込んで必死に顔を水面へ出そうとする。テレビで見たわこれ……。泳げない人って本能的に近くにあるものを掴んでとにかく顔を上に上にいかせようとするらしい。
地震のような足音はずっと続いる。もたもたしている余裕はない。少し強めにリミスタを戒めた。
「リミスタ! 落ち着け!」
するとおとなしくなった。目を強くつむって口をひき結んでいる。
「いいか。脱力して上を向け。そうすれば浮力で沈むことはないから安心しろ」
簡潔に手早く伝えた。リミスタは無言で何度も首を縦に振った。肩が上がっていて脱力できてるのか定かではない。
「俺が泳いで引っ張る。だからその間は力んだりせずにリラックスしててくれ。……俺を信じろ」
「…………うんっ」
リミスタの体が水面近くにぷかぷかととどまる。上を向くリミスタの両脇に腕を回して引っ張りながら、足だけで泳ぐ。リミスタの肩あたりに俺の顔が来てリミスタの顔が近い。
バタ足だと体力をかなり消費するので平泳ぎの蹴りで進む。出せる限りの速度で泳ぐ。〈噴放〉で生み出した水流により思っていたよりも早く進んだ。
「グルルゥ……」
猛獣は俺たちの前へ姿を現した。
岸から水面を見下ろしている。
目を閉じていたリミスタは、うめき声でその存在の到来を感じたのか薄眼を開けて俺と同じ方角を見た。俺たちは押し黙って猛獣の選択を待つ。泳ぐ足は休めない。
俺が湖に逃げ込んだ理由はふたつある。
まずひとつ。
奴の顔面を殴った時、俺は無意識に「クソ猫」と叫んでいた。容姿は大きく異なるけど明らかに猫科なんだよ。猫っぽくニャンニャンニャーンって鳴かなくでゴァァアアって鳴いてるんだけどね……。
そこで思ったのだ。猫って水嫌いじゃなかったか? と。
もしもあいつが極度に水を嫌ってるなら、いい感じに距離をとってしばらく惹きつけられるのではないかと考えた。
「……あっ」
リミスタが声を漏らした。体制的に顔がすぐ横にあり耳元で聞こえたので、思わずドキッとした。すぐに冷静さを取り戻してリミスタの視線をなぞる。
「戻ってく……」
ドズンドズンと大地を揺らしながら走り去る。その姿は森の闇に消えた。その後も奴が走っているであろう振動が続き、時折木の折れる音が聞こえた。
俺は泳ぐ速さをあげて必死になって岸から距離を取る。俺のようすをいぶかしんでかリミスタが俺へ顔を傾けて問いかける。
「止まらないの? もうもふもふ行っちゃったよ」
唇が耳に触れそうでヤバい。吐息がかかりまくりでゾクゾクが止まらなかった。リミスタまだこっち向いてるっぽいし、さっと高速で振り向いたらリミスタの唇とトラブル起こしてしまうんじゃ……。
「ラウス?」
声のする方へ首を回そうとする邪な心を押さえつけて鋼の精神で正面をにらみ続ける。
前触れもなく続いていた揺れが収まった。やはりか。
「……止まった」
耳元から少し離れたところから声がした。頭の位置を正面に戻したらしい。なにこのがっかり感。
揺れが再び始まる。そして振動と音が加速度的に高まっていく。俺とリミスタの心音もつられて早くなる。
「なになになに? ね、ラウス」
焦燥をにじませた声が耳元で聞こえる。こんな場面でふざけることはできない。俺は、約百メートルは先の岸に視線を固定したまま泳ぎ続け、その時を待った。
振動は激しくなる一方。そして森の奥に白いものが見えたと思った次の瞬間には、そいつの全貌が月下に晒された。
リミスタが息を飲む。
猛獣は走った勢いそのままに、俺たちに狙いを定めて跳躍した。跳んだ時の衝撃で岸の端は広い範囲が粉砕された。折れたり倒れたりした付近の木が、今の動作がどれほどの威力だったのかを物語っている。
宙を舞う猛獣。月明かりに照らされて白い体毛が艶やかに光を反射する。全身に走った黒い模様がはっきりと見えた。
「息吸って呼吸止めろ!」
「……はあぅん」
隣から息を止める声が聞こえた。
猛獣の巨体が俺たちに迫る。猛獣は牙をむき出しにし顔にしわを寄せている。さらに弓形の鋭い爪をこちらに向けていた。
俺が湖に逃げ込んだ理由はふたつある。
まずひとつ。
水を嫌って俺たちの元まで来ないのではないか。こちらの望みは潰えた。
次にふたつ。
「お前は重すぎる」
白い塊はリミスタにあと人ひとり分で届くという距離に落ちた。すると俺たちの体は一気に水中に引きずり込まれる。水中の青に、月明かりで照らされた植物達が映えた。多量の泡が俺たちの体と一緒に水流に押されて激しく動く。
光をも飲み込む黒い水底に、白い影が沈んでいくのが見えた。その様を見届けることなく、次なる激流に巻き込まれる。最後、俺たちは水柱とともに水上に押し出された。
逆らえない流れにされるがまま、何度も水中や水面を行き来した。ほどなくして波が収まる。リミスタをお姫様抱っこして立ち泳ぎする。
リミスタは薄眼を開けて状況を把握すると「ぷはあっ!」と息を吸う。いそがしく周りを見て、終点に俺へ疑問の視線を投げた。
「陸に上がってから話すよ」
「うん」




