現実から逃げるのは得意だ
「シ……シーンさん!」
いったい何が。いや、そんなことよりもシーンの安否を確認しなくては。地面に倒れ伏したシーンの体をすぐさま上に向けた。右手がシーンの血液で赤黒く染まる。シーンが咳き込んで口からごぽりと血が漏れた。血のしぶきが顔にかかった。彼女の傷口から焦げ臭いがただよう。
「あ……あ……シーンさん! シーンさん!」
シーンから隙間風のようなひどい呼吸音がする。どうしようどうしようどうしようどうしよう。クソが。……そうだ、止血。シーン自身に回復魔法を……。
「シーンさん! 回復魔法を!」
「えふっ……ぐふっ……」
シーンが顔を歪めて再び咳き込む。彼女が魔法を使うのを待つが、なかなかその素振りを見せない。なぜ魔法を使わない。早くしないと死んでしまう。
「シーンさん早く!」
緩慢とした動きで首を横に振る。なんで。急がないと命が。……あ、そうか。
シーンが口の端に血の泡を溜めながら、必死に声を出す。
「ふさ……げ……ません……。傷が……おおき……すぎます……」
回復魔法は擦り傷や打撲ならば瞬時に治せるが、穴が開くほどの傷はそうはいかない。骨の再生、神経の再生、血管の再生、筋肉の再生、皮膚の再生。やることが多すぎるのだ。血管だけを最優先しようにも、とめどなく溢れ出す血のせいでうまくいかない。それに、傷が大きいせいで、血管の治さなくてはいけない本数も比例して多い。
焼いて傷を塞ぐという手段がある。しかし、シーンを貫く穴は腕のみならず胴にもある。肺やその他いくつかの臓器もうがたれてしまっているだろう。そこを焼くとどうなるか俺も想像できないわけではない。
シーンはいま、絶望的なほどの重体だ。数人の回復魔法の使い手がいれば彼女を救える。でも回復魔法を使える人間なんてそうそう居ない。ここの教会だって、回復魔法をつかえるのはシーンだけだ。
「おい誰か! 助けてくれ!」
通行人たちは混乱しているようでその場で固まっている。……クソ。誰か応えてくれよ……俺じゃシーンを救えないんだ……。
「シーンさん……俺……」
悲鳴が上がる。ざわめきが波紋した。あたりの人間が弾かれたように動き出す。誰かが救急に連絡しているのがなんとか聞き取れた。
シーンの顔を見る。さっきまでま紅潮していた顔は、嘘みたいに青白くなっている。作り物みたいだ。生気がない。生きているのだろうか。生きていてくれ。
「シーンさん!」
「…………」
虚ろな目が俺を捉える。口がわなわなと動いた。まだ生きている。
「……わた……くし……まだ…………生き……たい…………です…………」
呼吸をすることさえままならないだろうに、頑張って言葉を紡いでいだ。彼女の手を握った。鉄みたいに冷たい。柔らかさも失われている。シーンが瞬きをすると、ひと粒の涙がつたった。その跡にそって次々と涙が落ちる。
彼女はまだ、ここにとどまりたいと願う。だが俺には彼女のその思いを叶えられるだけの力がない。なんでこんなに無能なんだよ。なんで魔法の才能がないんだよ。なんで彼女を救えないんだ。誰でもいいからシーンを助けてくれよ。
ほとばしるいろんな感情で心はめちゃくちゃになる。気づけば全身が小刻みに震えている。シーンの魂がこの場所から離れることを本能が恐れているのだろうか。そんなことに思考を回せるほどの余裕はなかった。なにもできず、「なにか」を「誰か」をただ待つことしかできない。悔しい。申し訳ない。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……。俺じゃ……なにも……できない……」
頭を下げて謝った。不甲斐なさで心臓が張り裂けそうだった。謝ることしかできない自分を殺したいほど憎んだ。それでも、そうしたとしても、俺はなにもできない。なにも起きない。
苦しげに喘ぎながら、シーンが再び口を開いた。
「……ラウ……ス……さん…………は…………悪く……ない…………です…………」
あなたは、俺は悪くないと言うがそんなことはない。無力で無能な俺が悪いんだ。
かろうじて彼女の瞳は俺の方を向いている。うつろで瞳孔が開ききっていて、もう長くないことを直感的に理解した。どうしよう……。いま俺はどうしたらいいんだ……。
シーンが俺に握られた手を持ち上げる。弱々しく動く手を邪魔しないよう、俺は手をほどいた。彼女の手は俺の頬骨あたりに触れる。氷かと錯覚するほど指先が凍えていた。シーンの指が動き、目のそばまで来た。なにか暖かいものが触れていることに気づいた。それは、血のどろりとした感触を持っていなかった。さらさらとしている。
生気のないシーンの顔が慈しみを帯びた気がした。俺は自分の顔に手を当てた。泣いてる。また彼女に泣顔を見られてしまったのか。
「おい!」
遠くから男の声。見上げるとローシウムが駆けつけてきていた。
「牧師……」
俺の声が聞こえたのかはわからないが、ローシウムの足は回転を速めた。あいつならばなにか、シーンを助けられる手立てを持っているだろうか。ローシウムでも誰でもいいんだ。シーンの命を繋ぎとめられるなら早くしてくれ。もう時間がない。
「牧師! シーンさんが……!」
教会の敷地にまとわりつく闇から、ローシウムが抜け出した。立ち止まり、血だまりに横たわるシーンと隣で両膝をついた俺を見ている。
「なに突っ立ってんだよ! シーンさんが死にそうなんだ助けてくれ!」
ローシウムは俺たちから目を背けて、野次馬が作り出した人垣に振り向く。途端に強く風が吹いたように感じた。しかし髪はそよがず、木々も軋まない。これは風じゃない。
魔力だ。魔法もしくは魔術が行使される前兆。発生元は言わずもがなローシウムだ。右の手首が発熱し始めた。ローシウムから目を逸らすわけにはいかず、右手首の熱は頭の隅に追いやった。
「みなさん!!」
力強い声が夜の街によく響いた。ざわめきが少しずつ収まる。俺の浸かる血だまりは、いまだとめどなく広がり続けている。
「この男は人殺しです! ここから逃してはなりません! 次の被害者が出てしまいます!」
静まり返る。誰も動こうとしなかった。
「テメェ!」
喉が裂けそうなくらいの怒号を放つ。ひそひそとしたひとつの会話が生まれた。会話は次々と生まれて重なり合い、ざわめきになる。
「この男は危険だ! いますぐに取り押さえなくては!」
なにバカなことを言ってるんだ。ふざけたことを言って場をかき乱すな。シーンがもう……。
「うあああっ!」
ひとりの小さな少年が雄叫びをあげながら飛び出してきた。俺に殴りかかってくる。俺は対応できず、横っ面を殴られた。殴られるなんて思っていなかったから〈魔功〉を使えなかった。子どもとはいえ走った勢いを乗せた一撃はかなり痛い。
「なんの……つもりだ……」
睨める。少年は俺の瞳に怯えてたじろぐ。
「うらっ!」
背後から背中を強く蹴られる。首をまわすと、会社員なのか背広姿の男が立っていた。その男は俺を鋭い視線で射抜いていた。瞬時に〈魔功〉と〈噴放〉を発動する。怒りに任せて裏拳を放とうとしたが思いとどまった。ここでやり返す意味はない。早急にシーンを助けなければならないのだ。こんなことをしてる暇はない。
「クソが! 状況がわかんねえのか! なにしてんだ!?」
「この野郎!」
ガタイのいいおっさんがかけてきて、俺の顔面を殴ろうと拳を下から突き上げてきた。〈魔功〉を纏った両腕を交差させて受け止める。
「話聞いてんのかおい! なにしてんだよお前ら!」
頭に鋭い痛みが走る。遅れるようにして血だまりに石ころが落ちた。石が飛んでくるのが視界に入る。俺の頭に当たって血だまりにまた落ちる。飛んでくる石は増えだす。〈魔功〉を全身に広げた。背後の背広姿の男がまたも俺を蹴る。次は別の方向から走ってきた男が俺を上から殴りつけた。人垣が一気に崩れだす。
野次馬の中の男たちが俺の方向に走ってきた。そしてそれぞれが、俺を殴るか蹴るかした。俺とシーンは人垣に囲まれていた。街灯のそばだというのに光が人に遮られ暗い。あちこちで地面に広がる血が踏まれ飛び散った。俺とシーンはいつの間にか血まみれになっている。
そんな中、男の靴が地面に狭く広がっているシーンの髪を踏みつけた。
「やめっ!」
顎を拳が突き、静止の声が出せない。誰か見えないが何人もの靴が、シーンの黒い修道服を踏みつけて汚した。中にはシーンの足や肩を踏む者もいる。
「やめろ! おい! や」
シーンの体が蹴られる。シーンの体に覆いかぶさった。少しでもシーンが蹴られないようにと冷たくなった体を密着さる。まるで半年前のようにあらゆる場所から蹴りつけられた。シーンを精一杯かばうが、どこからか飛んでくる石や拳や蹴りは、俺だけでなくシーンも捉える。
「やめろっ!!」
俺たちふたりを襲う者たちはその言葉に従わない。入れ替わり立ち代りながら、その猛攻を衰えさせる気配がない。シーンの体が……また蹴られて揺れた。また揺れた。また。また。
「なんで……なんなんだよ!」
シーンを抱きしめる。もっと広い範囲を守るためだ。顔だけは絶対に傷つけまいと抱えた。むせかえりそうになる生臭い血の臭い。彼女の顔をすぐそばに抱えたためか、彼女の香りが少しだけした。修道服越しでもわかるほど体全体が冷たくなっている。彼女の豊かな胸が押し付けられる。なぜか涙が溢れ出した。
「みなさん! 少しずつですが弱ってきています!」
怒声や罵る声、地面や血を踏む音のその向こう側からローシウムが言った。俺を取り囲んで蹴りつける彼らの奇行は、ローシウムの魔術のせいか? シーンさんがこんな風に汚れたのもこいつの魔術の……。おい。そういえばシーンの安否で頭がいっぱいだったが、この状況に陥った原因はなんだ。シーンを貫いたあの光線はいったい誰が発生させた。
あの光線は火の魔法で間違いない。俺は半年近くこの教会に入り浸っている。ここの人間で光線などの上級の火魔法が使えるのはシーンくらいだ。「この教会では」な。
ローシウムはここにきてまだ二日と経たない。俺はあいつのことをあまり知らないが、イラの話で火の魔法が使えるというのは知っている。どれほどの実力かは知らないが魔術の効果などを鑑みると、あの光を創りだせてもおかしくない。動機はなんだ。まさか俺とシーンが抱き合っているのを見て嫉妬した? それだけでないとしても、シーンが俺と親しいことを快く思わなかったのだろうか。でもまさか立派なひとりの大人が、そんな身勝手なことでここまでするなんてありえるのか?
これまでの人生で経験したことがないほど黒く激しい怒りが湧いてきた。俺とシーンを蹴りつける男たちはローシウムの魔術出こんなことをしているんだろう。だからといって許しはしない。全員例外なくぶちのめす。
そしてローシウム。お前は楽に逝けると思うなよ。シーンにここまでふざけたことしやがって……お前は絶対に俺の手で殺してやる。
「どけ!」
靴が飛んでくるのも気にせず顔を上げる。人ごみ隙間からレンガ色が覗く。それにさっきの声はリピかイラの声だった。乱暴な言葉遣いなのでリピの方だろう。俺にむらがっていた男たちが割れ、開いた先からリピが現れる。
「リ……リピさん! シーンさんが……」
抱いていたシーンを解放し、地面にゆっくりと置く。全身血まみれで、土だらけで、見ていて痛々しかった。クソ……俺の力不足でこんな……。
リピはシーンの姿を見て悲痛な顔を浮かべ駆け寄る。
「誰が……」
リピの問い。俺が口を開きかけた時、横合いからあの男が叫んだ。
「そこの男だ! そいつがシーンを殺した!」
ローシウムを睨む。彼の顔は怒りで染まっていた。どういうことだ。なぜお前が怒る。俺の中で憤激が荒れ狂う。
腹に衝撃。〈魔功〉が砕かれ硬化した魔力の破片が散る。俺の体は後ろに吹き飛んだ。何人かにぶつかって数度回転し勢いが止まり、地面にうずくまる。俺の口から血が落ち、地面に赤い斑点をいくつも作った。何度も咳き込んだ。そのたびに血が口から飛び散る。リピってこんなに強かったのか……。
立ち上がりリピを見据え、そして両手を上げる。彼女と戦う気などないと降伏の動作をする。念のために警戒はしておく。
「リピさん、一度冷静になってください。俺がシーンにこんなことするはずっ」
リピは一息に間合いを詰めて、俺の鳩尾を正拳突きで狙う。後ろに跳んで避けた。リピならば話を聞いてくれると信じたかったが、彼女の目を見るとそうもいかない。だって俺を殺そうとしているのだから。恐怖で足がすくむ。
回し蹴りが俺の首めがけて振るわれる。屈む。膝にためた力を解放し飛び出す。目標はローシウムだ。あいつさえ止めればリピも止まるはず。
〈噴放〉を使い、後ろに吹き出す魔力の推進力で加速する。ローシウムは俺の行動を見てとると、手を俺に向けた。手のひらに火の球ができ、渦を巻いて輝きを増す。色が赤から白に変わっていく。シーンを貫いた魔法に違いない。白い炎は凄まじい高温であるはずだが、シーンの傷口は癒着せずに流血していた。火の温度ではなく性質を変えているだけだろう。どちらにしても当たれば終わりだ。
ローシウムの表情に生まれたわずかな動き。おそらく魔法が発射される。俺は横に跳んで地面を転がる。そのとき、光線が視界の端に映った。横目で確認して、再び彼に向けて駆け出す。後ろでリピがうめき声を漏らした。彼女に当たってしまったようだ。
構わずローシウムに肉薄。全体重の乗った左の拳を〈魔功〉で固め〈噴放〉で爆発的に速度を上げる。俺の握った左手がローシウムの顎を捉える、と俺が確信したとき横合いから飛び出した拳に阻まれた。前腕に何者かの裏拳が当たり、砕けて折れる。
思わず声が漏れた。それでも止まらない。視線をずらすと俺の腕を折ったのがリピだとわかった。まずはリピを止めなければ。
リピに向けてひるがえると、突如現れた大量の水が滝のように降り注いだ。俺とリピとローシウムを含め、周囲にいた野次馬たちも巻き込まれる。大瀑布のごとき水の勢いに負けて、誰もが地面に膝か尻をつく。
「ラウスさん! 早く逃げてください!」
そいつは俺の知らない女性だった。修道女たちとは異なる白い衣服を着ているが修道服ではあるようだ。少しばかり刺繍がみてとれ、重ね着もしている。修道女たちよりも上の存在であろう。もしかして神官長か。
「そんな! シーンさんが」
体が吹き飛んだ。体に痛みはない。勢いよく空中を舞う。眼下で俺にむらがっていた野次馬たちや、シーン、リピ、ローシウムが過ぎ去っていく。野次馬の数はもう三十に近い。
高速で後方へ滑っていく石畳がその速度を落とし迫ってきた。落ちる。
身構えて、全身に〈魔功〉をまとって〈噴放〉を地面に向かって放つ。これでも大怪我は避けられないだろう。強く歯をくいしばる。しかし、俺が石畳の地面に激突することはなかった。空気の塊が俺の体に押しつぶされ霧散する。風の魔法が衝撃をすべて拡散させていた。
「行ってください!」
リピ……じゃない。イラだ。神官長らしき女性の側にイラが立っていた。つられて傍の人間たちを見る。めいめいがゆっくりと顔を俺の方に向けようとしている。
白い閃光が奔る。俺の左手肩をえぐって後方へ消えた。
「ああっ……!」
魔法の勢いに押され、左肩が後方へ引っ張られる。痛みで視界が真っ白になった。すぐに色を取り戻すが、思考が鈍くなにも考えられない。
「ラウスさん!」
再びイラの声が響いた。続いて聞こえたのは悲鳴。
「この女もあいつの仲間だ! さあ、みなさんも!」
ローシウムがイラに魔法を放っていた。周囲が動き出す。俺の方へ向かってくる者。イラたちに向かっていく者。彼らの足元に転がるシーンは何人もの足に踏まれていた。怒りよりも、途方もない悲しみが俺の体を襲った。
「早く!」
イラの裏返った声。悲鳴にも聞こえる。
俺は。
俺は……いま、どうすれば……。
イラと神官長の実力では、この数が相手だと劣勢だろう。他の修道女たちがいますぐに駆けつけてくれても、巻き返すのは困難だ。だからといって俺が加勢してもこの戦況をくつがえすことは難しい。全盛期の俺ならまだしも、現在の俺は一年半という大きすぎる空白を持っている。魔力も体力も衰え、長くない時間でどちらも尽きるだろう。
何十と並ぶ人の向こうで横たわるシーンを見た。緑が混じるうすい青の髪。血と土でしっとりとした艶やかさは見る影もない。彼女はたぶんもう……。
右の手首が熱くなった。目をやる。シーンからもらった組紐の腕輪が、白く煌めいていた。その光は俺に早く逃げよと急かしているように思えた。
だめだ。あいつを……ローシウムを止めなきゃ。
「あああっ!!」
腕輪が燃え上がる炎のごとく熱くなる。手首が焼けて溶け落ちそうだ。迫る男たちの向こう側をまた見る。シーンは先ほどと変わらず横たわっている。
……都合のいい考えだってのはわかってる。
でもあなたはきっと、そう望んでいるんだろう。
「…………ごめんなさい」
体を反転させる。駆け出す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度もつぶやいて、走るのを早める。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
左腕は力なく垂れて、皮と筋肉でどうにか繋がっている。右手で二の腕を掴み、ちぎれないようにしながら走った。黒い服は流れ出た血でその色を深くし、通り過ぎる街灯の光に当たってはぬらりと光った。
背後から魔力の波が広がった。俺の進む先までその魔力は届く。道行く人の顔つきが変わった。「その男は人殺しだ!」ローシウムの声がここまで聞こえた。そのときから俺にむけていろいろな物が投げつけられた。反撃などできず、ひたすら耐える。
その間俺は、ずっと謝っていた。教会の人たちに街の人たちに。届かないのはわかっている。それでもずっと謝った。ごめんなさい、ごめんなさいと、誰が聞いてくれているのかわからない謝罪を何度もした。
街から人の影が消えていく。もう深夜だ。誰かに物を投げられなくなった。後ろから俺に罵声を浴びせる人間が居なくなった。足は止めない。まだ誰かに追われている気がしたんだ。止まることが怖かった。
走り続けると夜が明けた。街並みはすっかり変わり、自動車などが普通に行き交っている。日が昇るにつれて人が増えた。みんな怪奇なモノを見る目を向けてきた。それでも走る。足に血豆ができて潰れて靴の中がぐちゃぐちゃになっても地面を蹴って進んだ。
「ごめんなさい………………ごめんなさい……………………ごめんなさい…………………………」
喉が枯れても言葉を止めなかった。足の感覚が消えても逃げ続けた。
何度も倒れる。そのたびに路地裏に這いずって潜む。呼吸が整ったら、あるのかないのかわからない体を起こしてまた走る。
そうして二日経った。酷使した体に限界が訪れようとしている。
朦朧とする意識。感覚を失った体。寝ているのか起きているのかわからず、ちゃんと走れているのかもわからない。
月明かりに照らされる夜。俺は森の中を走っていた。いつから森に入ったのだろう。すこし前に立ち入り禁止と書かれた標識があった。それより前には森に入っていたように思う。もう追手の気配はない。昨日の時点でまいているはずだ。
森の木々は風に凪ぐ。星の輝く夜の空を塗りつぶしてうごめく。大勢の人間が俺を取り囲んで見下ろし、腹を抱えわらっているように見える。
森のざわめきが大きくなる。
空気の息吹きではない。
魔力が波紋したわけではない。
空と大地が不意に森閑を思い出した。一息の間音が消える。月光の下で立ち止まった。俺の荒れた息が揺れる意識に届く。そして自らの呼吸とは別にもうひとつの音。重たいようで浮いているような足音。四足の者が近づいてくる。
見えないが、なにかが俺の眼の前で立ち止まった。なんとなしに見上げる。そこに俺を見下ろす瞳がある気がした。
ついに力尽き、俺は倒れた。




