友人の私情
萩原友人はわが校の有名人である。
多くの美女、美少女をずらりとそろえた萩原ハーレムの主として。
また彼をめぐる女たちの争い、トラブル元凶として、怨嗟を伴った声が上がらぬ日はないと言っていい。
そんな彼に対し、人ならだれしも抱く疑問がある。
「なんであいつはあんなに鈍いんだ!」
これである。
そんな声が毎回上がるのは、萩原ハーレム対策委員会においてである。
たとえば妙全寺妙と、あるいは萩原心と、由良ふたつや三笠笹木と、くっついたらくっついたで血涙を流すことになるのは分かっているはずなのだが、それ以上にわが校の美女たちが独占されている現状は、耐えがたいらしい。
だが、とっととくっつけるにしても、誰とくっつけるのか。
委員会内で各派閥の思惑が絡み合って、容易には決まらない。
腐の人である妙全寺あやめが加わってひっかきまわすから、余計に議論はまとまらない。
ともあれ、萩原友人は朴念仁である。
恐竜並みに鈍い、と評したのが誰だったのか、残念ながら失念してしまったが、至言だと思う。
彼が何故かように他人の好意に鈍感なのか、幼馴染であるところの更科明に聞いてみたことがある。
「おそらく、こういうことではないだろうか」
いつものように文語調の、もってまわった言い回しで、彼女は語った。
「感覚の疲労という概念がある。特定の刺激を受け続けると、感覚がその状態に慣れてしまって、それに反応しなくなる――すなわち、刺激を与えても与えなくても変わらない状態になってしまう」
「そこで友人の話だ」と、彼女は言う。
「友人は、幼いころからモテてきた。それはもう、ものすごく」
「ものすごく」に、なにやら深い情念か込められていたが、ともかく。
そこまで聞けば、彼女の言わんとするところはわかった。
つまり友人は、モテていることが当たり前すぎて、それに気づけなくなってしまったのだ。
ご愁傷さまと言うべきか、それともざまあみろと言うべきか、迷うところだった。
同じ話題を、友人の隣人であり、教師でもある森野久万女史に尋ねてみた。
彼女の意見は、更科明とはまた違う。
「明ちゃんの意見、まあ正しいとは思うんだけど、他にも原因はあると思うな」
森野女史の意見はこうである。
「感覚の疲労ってのはいいとこ突いてるけど、友人ちゃんが疲労してるのは、もっと根本的な部分じゃないかな。たとえば異性に対して抱く劣情というか、そのあたりが麻痺してるのよ」
ちっさい時から美人慣れしてるしね。と、森野女史は付け加えた。
たしかに。妹の心といい、更科明といい、森野女史もそうだ。
幼いころから美人とスキンシップを重ねてきた結果、友人は異性に性的欲求を抱けない体になってしまったのではないか。
――さすがにそれは哀れをもよおす説ではある。
「旦那さまは、聡明な方ですよ」
こう主張するのは、三年生の三笠笹木だ。
萩原友人のことを「あなた」と呼ぶ、この妄想世界に住まう美少女は語る。
「もちろん有象無象どもの好意に気づいていないはずがない。しかし、同時に旦那さまはお優しい方でもある。無下に好意を否定もできず、結果として知らないふりをされているのです。なぜならば、旦那さまの愛は、この笹木、ただひとりに注がれているのですから」
電波乙、と言うべきだろうか。
しかしこの類の地雷美少女は、萩原ハーレムにいくらでもいるのだから恐ろしい。
こんな意見もある。
「それはゆーくんが同性(ry」
こんなことを言い出すのはだれか、あえて述べるまでもないだろう。
続いて彼の妹であるところの萩原心に尋ねてみたところ、こんな意見が返ってきた。
「それはわたしが毎晩おにいちゃんの耳元で(ry」
例の腐の人とは違う意味で危なかった。
まあ、妄想乙な面々は置いておくとして。
これだけ素養があれば、彼が男女の機微について、異常なまでに疎いことに関して説明できるような気がする。
しかし、実はこのどれもが決定打でないことを、友人の幼馴染にして数少ない同性の友人であるところの僕は知っている。
友人が朴念仁になった原因。
それは、同じく幼馴染であるところの更科明が原因なのだ。
◆
小学校の頃の話である。
現在の萩原ハーレムを構成するメンバーの大半と、未だ知りあってはいない。
幼いころの更科明は、いまよりいくらか活発で、男である僕や友人ともよく遊んでいた。
「明が、俺のこと好きみたいだ」
と、友人が困惑気味に打ち明けたのは、いつごろだったか。
とりあえず冬だったのは覚えている。我が家の炬燵にあたりながら、友人が唐突に口にしたのだ。
僕はといえば、未だ異性に興味を持ち得ないころである。
ふーんそうなんだ、と聞き流すのみであった。
実際、僕は明が友人のことを好きだとは信じられなかった。
萩原友人の自意識過剰に過ぎないのではないかと、この時は疑っていたのだ。
そうでないことは、案外すぐにわかった。
今度は、更科明のほうから相談を受けたのだ。
彼女は友人のことが好きだと明言はしなかった。
「でも」「だって」「そういうんじゃなくて」といった言葉を多用しながら、どうやら友人のことが好きだと言いたかったのだと僕が察したのは、実に日が改まってからのことだった。
ここは共通の友人である僕の出番だろうと、僕は張り切った。
友人にしても、明のことが嫌いではないと分かっていたから、なおさらである。
まず、僕は明に告白する場所を提供した。
その場所で顔を突き合わせたふたりだが、明はあらゆる婉曲的な言葉を使って「なんでもない」ことを主張した。あきれるほかない。
どうやら彼女のほうから告白させることは、非常に困難なのではないかと気づいたのは、数度も告白に失敗したときである。
そこで、今度はアプローチを変えた。
友人のほうから告白してもらおうとしたのだ。
さいわい、友人も恋愛などについて未熟なりに、明の好意に応えたいようだったから、話は早い、と、考えたのだが。
これが大失敗だった。
「明、俺のこと、好きか?」
友人の切り出し方も、悪かったかもしれない。
しかし、友人も当時は小学生だ。話の段取りや組み立てなどろくに考えずに切り出したことを、責めるべきではないだろう。
責めるべきは、かわいそうだが、更科明だ。
彼女はいつものごとく、言を左右にさせてはっきりしない。
そんなことが数度も続き、いつまでたっても煮え切らない明に、友人はすっかりへそを曲げてしまった。
「あいつからはっきり言って来るまで、俺、ずっと知らないふりするから!」
怒った友人は、そう言って、本当に知らんぷりしてしまった。
明が何か言いたそうにしていても、いい雰囲気になりそうな時も、友人はあえて知らんぷりを続けた。
習いは性と言う。
中学校に入り、高校に入るに至って、友人は無意識のうちにそういうイベントをスルーするようになっていた。
意図しているわけではなく、もはやそれは無意識の作業となっているのだ。相手の好意に気づけるはずがなかった。
立派な朴念仁の誕生である。
むろん、これだけが原因ではなく、更科明や森野女史たちが挙げた種々の要因が重なってこその筋金入りなのだろうが。
◆
更科明が、いまでも友人に好意を抱いていることを、僕は知っている。
友人も、退化しきった恋愛脳の大きな部分を占めているのは、やはり更科明なのだろう。
だけど、いまだに二人の、共通の友人であるところの僕は、それを後押しするつもりなどない。
高校生にもなって、他人の恋愛事情に首を突っ込む趣味もないし、なにより。
あれだけいい女に囲まれてる野郎に、更科明を渡す気など、僕にはさらさらないのである。