第七話 兄が遺した音
朝になっても、悠真はほとんど眠れなかった。
昨夜、ベランダで見つけた小さな足跡。
恐る恐る確認すると、朝には跡形もなく消えていた。
雨で流れたわけではない。
ベランダだけが、不自然なほど乾いていた。
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午後一時。
悠真は榊真琴に指定された喫茶店へ向かった。
店は山あいの小さな町にあり、木造の古い建物だった。
店内には静かなクラシック音楽が流れている。
その音楽さえ、どこか寂しく聞こえる。
窓際の席で待っていた女性が立ち上がった。
「相沢さんですね。」
榊真琴は二十代後半。
黒髪を肩まで伸ばし、落ち着いた雰囲気をまとっている。
しかし、その目には深い疲れが刻まれていた。
「来てくれてありがとうございます。」
「兄のことを話します。」
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注文したコーヒーが運ばれてきても、真琴はすぐには口を開かなかった。
バッグから一冊の古い手帳を取り出す。
茶色く変色した表紙には、
『榊 恒一』
と名前が書かれていた。
「兄の日記です。」
悠真は静かにページを開く。
最初は普通の日記だった。
仕事のこと。
家族のこと。
休日のこと。
だが、ある日を境に内容が変わる。
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六月八日
白鳴隧道へ行った。
歌を聞いた。
誰にも聞こえなかった。
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六月九日
時計の音が大きい。
眠れない。
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六月十日
風の音が歌になった。
耳を塞いでも聞こえる。
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六月十一日
家中が歌っている。
もう静かな場所がない。
お願いだから、
誰か歌を止めて。
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そのページで日記は終わっていた。
「……三日。」
悠真が呟く。
真琴は静かにうなずいた。
「兄は、その夜に亡くなりました。」
「警察は自殺として処理しました。」
「でも兄は、自分から死ぬような人ではありません。」
彼女はバッグから小さなICレコーダーを取り出した。
「兄の遺品です。」
「亡くなる前日に録音したものです。」
悠真は息をのむ。
「歌が入ってるんですか?」
真琴は首を横に振る。
「聞いてください。」
再生ボタンを押す。
ザーッ……。
ノイズだけが流れる。
その奥で、男性の震えた声が聞こえた。
> 「また聞こえる……。」
数秒の沈黙。
> 「歌が近づいてくる。」
呼吸が荒くなる。
> 「録音には残らない。」
> 「でも、あの人は歌ってる。」
そして最後に、
> 「振り向いたら、終わる。」
録音はそこで途切れていた。
店内は静まり返る。
「これが最後の声です。」
真琴はICレコーダーを見つめた。
「歌そのものは、一度も録音できませんでした。」
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帰り際。
真琴は一枚の古い地図を差し出した。
「これは昭和四十年代の白鳴隧道です。」
現在の地図にはない細い道が一本描かれている。
「この道は?」
「坑道です。」
「工事関係者だけが使っていた地下通路。」
「今は埋まっているはずですが……。」
真琴は言葉を切る。
「兄は亡くなる前、この坑道へ行こうとしていました。」
「何かあるんですか?」
「分かりません。」
「でも兄は最後にこう言いました。」
真琴はゆっくりと悠真を見つめる。
> 「歌っているのは、一人じゃない。」
その言葉に、悠真の背筋が冷たくなった。
少女の霊ではない。
歌姫でもない。
もし複数いるのだとしたら──。
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店を出る頃には、外は夕暮れになっていた。
山の向こうへ沈む夕日が、赤く空を染めている。
その時、商店街の防災無線が午後五時を告げる音楽を流し始めた。
どこの町でも聞く、ごく普通のメロディー。
しかし悠真には、その旋律がほんの一瞬だけ、白鳴隧道で聞いたものと同じように聞こえた。
耳を澄ます。
次の瞬間には、いつもの音楽へ戻っていた。
「……始まってる。」
悠真は思わずつぶやく。
日曜日まで、あと一日。
歌はまだ聞いていない。
それなのに、世界の音が少しずつ変わり始めていた。
遠くの山から、風が吹く。
その風の中に、誰かが笑ったような声が混じっていた。
――第八話「日曜二十三時」へ続く。




