第二十五話 少女の名前
鉄扉の亀裂から漏れ出した歌は、坑道全体をゆっくりと満たしていく。
最初は小さな旋律だった。
だが数秒後には、何百人もの人間が同時に歌っているような大合唱へ変わる。
その中に、一つだけ違う声が混じっていた。
泣き声だった。
少女は耳を塞ぎ、その場に膝をつく。
「……いや。」
かすれた声。
今までで一番はっきりと聞こえた。
悠真は少女の前へしゃがみ込む。
「君は誰なんだ。」
「どうしてここにいる。」
少女は震える指で、自分の胸を押さえる。
何度も口を開こうとする。
しかし歌が邪魔をする。
低い大合唱が少女の声だけを飲み込んでしまう。
真琴は兄のICレコーダーを少女へ向けた。
「お願い。」
「話して。」
レコーダーの赤いランプが静かに点灯する。
録音できないはずだった。
それでも真琴は構わなかった。
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突然、坑道の歌が止む。
ほんの数秒だけ。
少女はその隙を逃さなかった。
小さく息を吸う。
「……み……」
途切れる。
もう一度。
「……み……さ……」
そして、三度目。
少女は涙を流しながら、自分の名前を口にした。
「美紗」
その瞬間。
坑道全体が激しく震えた。
まるで「名前」を呼ばれたことを嫌うように。
天井から砂が降り注ぐ。
真琴は驚いた表情で少女を見る。
「名前……。」
「初めて聞けた。」
美紗は小さくうなずいた。
「思い……出して……くれた。」
その言葉は途切れ途切れだった。
まるで長い年月、話すことを忘れてしまった人間のように。
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悠真は優しく尋ねる。
「昭和五十二年の事故なのか。」
美紗は首を横に振る。
違う。
「じゃあ……工事の人じゃない。」
また首を振る。
そして、美紗はゆっくりと坑道のさらに奥を指差した。
「もっと……前。」
真琴と悠真は顔を見合わせる。
昭和ではない。
さらに昔。
「この山には、工事より前から何かがあった……。」
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その時だった。
美紗の足元に黒い影が集まり始める。
影ではない。
声だった。
壁から漏れていた無数の声が黒い霧となり、美紗の身体へ絡みついていく。
「やめろ!」
悠真が手を伸ばく。
しかし手は影をすり抜ける。
美紗は苦しそうに胸を押さえた。
「名前を……呼ばないで……。」
「え?」
「名前を呼ぶと……見つかる。」
遅かった。
坑道の奥から、今まで聞いたことのない低い振動音が響く。
ドォン……。
歌ではない。
巨大な何かが、ゆっくりと立ち上がった音だった。
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真琴が懐中電灯を奥へ向ける。
光は途中で飲み込まれる。
しかし、その一瞬だけ見えた。
闇の中に、無数の白い仮面。
人の顔ではない。
口だけが異様に大きく開いた面が、壁一面に浮かんでいた。
そして、そのすべてが同時に息を吸う。
「……!」
悠真の全身に鳥肌が立つ。
仮面は歌っていない。
**歌うための「口」**だった。
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美紗が震える声で言う。
「歌は……あれ。」
「私は……違う。」
「ずっと……止めてた。」
悠真は理解した。
だから日曜の夜しか歌が外へ漏れなかった。
美紗が何十年も、たった一人で封じ続けていたからだ。
しかし、その力も限界に近づいている。
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その時、兄・恒一のICレコーダーから再びノイズが流れた。
ザーッ……。
そして、聞き覚えのある声。
> 「真琴。」
兄だった。
真琴は息を止める。
> 「封印は壊すな。」
数秒の沈黙。
> 「封印を……」
ノイズが激しくなる。
言葉が途切れる。
そして最後に、はっきりと一言だけ聞こえた。
> 「替われ。」
レコーダーは沈黙した。
坑道にも静寂が戻る。
悠真と真琴は、その言葉の意味を理解できなかった。
だが美紗だけが、小さく首を横へ振った。
「……だめ。」
「もう……誰も……。」
その願いと同時に、巨大な鉄扉の亀裂がさらに広がる。
鈍い音が坑道へ響く。
封印が、ゆっくりと壊れ始めていた。
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