第十七話 二日目
午前五時四十三分。
悠真は眠れないまま朝を迎えた。
窓の外では、小鳥が鳴いている。
チュン……チュン……。
いつもなら心地よいはずのさえずり。
しかし今の悠真には、それも歌の一部にしか聞こえなかった。
高い音。
低い音。
旋律は複雑になり、白鳴隧道で聞いた歌へ少しずつ近づいていく。
「もう……どこにも逃げ場がない。」
カーテンを閉めても、音は消えなかった。
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午前九時。
悠真は外へ出た。
真琴から言われていた。
「家に閉じこもると、音はもっと近くなります。」
町は普段どおりに動いていた。
通勤する会社員。
信号待ちの学生。
犬の散歩をする老人。
誰もが平穏な朝を過ごしている。
だが悠真の世界だけは違った。
横断歩道の信号機が鳴る。
ピヨ、ピヨ、ピヨ。
その電子音は、幼い少女たちの合唱になった。
スーパーの自動ドアが開く。
ウィーン。
低い機械音は、女性のアルトへ変わる。
遠くを走る電車の走行音。
車輪がレールを擦る音は、男たちの低いコーラスになっていた。
街全体が、一つの巨大な合唱団になっている。
悠真は耳を塞ぐ。
それでも歌は頭の中で鳴り続ける。
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昼過ぎ。
真琴と合流した。
彼女は悠真の顔を見るなり、小さく息をのんだ。
「昨日よりひどいですね。」
「全部歌だ。」
悠真は疲れ切った声で答えた。
「鳥も、車も、人も。」
「もう普通の音が思い出せない。」
真琴は黙って頷く。
そして、バッグから一枚の古い写真を取り出した。
白黒写真だった。
昭和五十二年。
白鳴隧道の開通式。
笑顔で並ぶ工事関係者たち。
その中に、一人だけ異様な人物がいた。
白い着物姿の少女。
工事関係者ではない。
誰も少女を見ていないようだった。
「この写真は新聞社の資料室にありました。」
真琴が言う。
「当時は誰も気づかなかったそうです。」
悠真は写真を見つめる。
少女は笑っていない。
ただ、写真のこちら側を見つめていた。
その視線は、どこか助けを求めているようにも見えた。
「この子が歌ってるんじゃない。」
悠真は静かに言った。
「違う。」
「歌を聞いてる。」
真琴は驚いたように顔を上げた。
「私も……そう思います。」
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その夜。
悠真は一人、自宅の机に向かっていた。
ふと、テレビをつける。
ニュース番組が始まる。
キャスターが原稿を読む。
しかし、その声は意味を持たない。
言葉がすべて旋律へ変わる。
何を話しているのか理解できない。
字幕だけが現実を伝えていた。
悠真はテレビを消す。
今度はスマートフォンを開く。
動画を再生する。
出演者が笑っている。
その笑い声も歌だった。
世界から「言葉」が消え始めていた。
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午後十一時四十分。
窓の外で、雨が降り始めた。
ポツ……。
ポツ……。
雨粒が窓ガラスを叩く。
その音は、何百人もの人間が小さくハミングしているように聞こえた。
悠真は立ち上がり、窓へ近づく。
街灯に照らされた雨の中。
道路の向こう側に、一人の少女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
傘も差さず、雨に濡れている。
少女は歌っていない。
ただ、じっと悠真を見つめている。
そして、ゆっくりと首を横へ振った。
違う。
そう伝えているようだった。
次の瞬間。
背後から、別の歌声が聞こえた。
少女ではない。
もっと低く。
もっと古く。
男とも女ともつかない無数の声。
悠真が振り返る。
部屋には誰もいない。
再び窓を見る。
少女の姿は消えていた。
雨だけが静かに降り続いている。
悠真は震える声で呟いた。
「……お前は、誰から逃げてるんだ。」
その問いに答える者はいなかった。
だが遠く、山の方角から。
今までで一番大きな歌声が夜空へ響き始めた。
それは、何かが目を覚ました合図だった。
――第十八話「消えた配信者」へ続く。




