第十四話 静かな病院
午前九時。
悠真は、耳鼻咽喉科の待合室にいた。
昨夜は一睡もできなかった。
眠ろうとすると、自分の呼吸が歌になり、目を閉じるたびに旋律が頭の奥で繰り返される。
朝になっても症状は消えなかった。
「医学的な原因なら、それで終わる。」
そう自分に言い聞かせて病院へ来たのだ。
待合室には十人ほどの患者が座っている。
新聞を読む老人。
母親に抱かれた幼い子ども。
スマートフォンを見つめる会社員。
どこにでもある朝の病院だった。
受付の番号表示が鳴る。
ピンポーン。
その電子音が、一瞬だけ歌声へ変わる。
悠真は顔を上げる。
誰も反応しない。
やはり聞こえているのは、自分だけだった。
---
診察室。
医師は耳の中を診察し、聴力検査も行った。
「異常ありませんね。」
「耳鳴りではないんです。」
悠真は言葉を選びながら説明する。
「機械の音が……歌に聞こえるんです。」
医師は少し考え込む。
「ストレスや睡眠不足でも、音の感じ方が変わることはあります。」
「ですが、検査上は問題ありません。」
処方されたのは睡眠導入剤だけだった。
病院を出ても、歌は消えなかった。
---
病院の駐車場で、真琴から電話が入る。
「結果は?」
「異常なし。」
「……やっぱり。」
真琴の声は落ち着いていた。
まるで予想していたかのようだった。
「午後、もう一か所だけ行きませんか。」
「どこへ?」
「精神科です。」
悠真は眉をひそめる。
「俺が壊れたって言いたいのか。」
「違います。」
真琴は静かに答える。
「兄も、同じ検査を受けました。」
「全部、異常なしでした。」
---
午後。
二人は市内の総合病院を訪れた。
精神科の待合室は静かだった。
時計の針だけが時を刻んでいる。
コチ……。
その音に混じって、歌が聞こえる。
もう時計の音なのか歌なのか、区別がつかなかった。
診察では長い問診が行われた。
睡眠。
仕事。
生活。
過去の病気。
一時間以上かけて診察した結果も、
「精神疾患を疑う所見はありません。」
だった。
悠真は苦笑した。
「正常らしい。」
真琴は笑わなかった。
「それが、一番怖いんです。」
---
帰ろうとした時だった。
待合室の隅で、一人の男性が頭を抱えていた。
三十代くらいだろうか。
顔色は青白く、何かに怯えている。
男は何度も耳を押さえながら、小さくつぶやいていた。
「うるさい……。」
「歌が……。」
悠真と真琴は顔を見合わせる。
真琴がゆっくり近づく。
「あなたも……聞こえるんですか?」
男は驚いたように顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「聞こえる。」
「ずっと。」
「もう二日目なんだ。」
悠真の心臓が強く脈打つ。
「白鳴隧道ですか。」
男はゆっくりとうなずいた。
「日曜日。」
「友達と面白半分で行った。」
「俺だけ聞こえた。」
男は震える声で続ける。
「友達は何も聞いてないって笑ってた。」
「でも昨日から……。」
「全部歌なんだ。」
その言葉は、自分とまったく同じだった。
---
診察の順番が来て、男は診察室へ入っていった。
悠真たちは病院を後にする。
駐車場へ向かう途中、真琴が立ち止まった。
「助けたい。」
小さくつぶやく。
「でも、助けられない。」
その表情は、兄を失った日のままだった。
---
翌朝。
新聞の地方欄。
片隅に、小さな記事が載っていた。
> 「市内マンションで男性死亡」
名前を確認する。
昨日、病院で会った男だった。
死因は転落事故。
警察は「誤ってベランダから転落した可能性が高い」と発表している。
悠真は新聞を握る手に力が入る。
「違う。」
「歌だ。」
真琴は黙って記事を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……三日目を迎える人は、誰も助けられませんでした。」
その言葉が終わると同時に、悠真のスマートフォンが鳴った。
着信音ではない。
通知音でもない。
あの歌だった。
たった一節だけ。
画面を見る。
通知は何も届いていない。
しかし、ロック画面には見覚えのない一行だけが表示されていた。
「次は、あなた。」
悠真が瞬きをした瞬間、その文字は跡形もなく消えていた。
――第十五話「兄の日記」へ続く。




