第十二話 冷蔵庫の歌
朝六時四十分。
目覚まし時計が鳴る前に、悠真は目を覚ました。
眠れた気がしない。
夢を見た記憶もない。
ただ、一晩中、誰かが部屋の隅で小さく鼻歌を歌っていたような気がしていた。
起き上がると、その歌は消えた。
代わりに聞こえてきたのは、冷蔵庫の低いモーター音だった。
ブゥ────。
どこの家庭にもある、ごく普通の音。
しかし今日は違った。
その音が、ゆっくりと旋律へ変わっていく。
「……。」
悠真は息を止めた。
ブゥ────という単調な振動の中に、昨日、白鳴隧道で聞いた歌と同じ抑揚が混じっている。
歌詞はない。
ただ、美しい旋律だけが流れている。
まるで冷蔵庫そのものが歌っているようだった。
悠真は慌てて電源コードを抜く。
モーター音は止まる。
歌も消えた。
「気のせい……か。」
そう言い聞かせる。
だが、コンセントを抜いてから数秒後。
背後で、冷蔵庫が小さく鳴いた。
♪
たった一音。
電気が通っていないはずなのに。
悠真はゆっくり振り返る。
冷蔵庫は静かにそこへ立っているだけだった。
---
午前十時。
悠真は動画編集用のヘッドホンを持ち、真琴の勤める新聞社へ向かった。
応接室で待っていた真琴は、悠真の顔を見るなり表情を曇らせた。
「眠れていませんね。」
「分かる?」
「兄も、一日目から眠れなくなりました。」
真琴は机の上へ数枚のコピーを並べる。
それは過去の被害者たちの日記だった。
全員、別々の時代。
年齢も職業も違う。
しかし書かれている内容は驚くほど似ていた。
---
『時計がうるさい。』
---
『冷蔵庫が歌っている。』
---
『エアコンの音が笑っている。』
---
『音が生きている。』
---
悠真はページをめくる手を止めた。
「全員……同じだ。」
真琴は静かにうなずく。
「症状の順番まで一致しています。」
「呪いには、決まった進行があります。」
「止められないのか?」
「……今まで止められた人はいません。」
その一言が、部屋の空気を重くした。
---
帰宅途中。
スーパーへ立ち寄る。
店内には、いつものBGMが流れている。
軽快なピアノ曲。
買い物客も普通に歩いている。
しかし悠真には、その音楽が途中から変わって聞こえた。
ピアノではない。
女の歌声。
店内放送でもない。
天井のスピーカーから、確かにあの歌が流れている。
悠真は周囲を見回す。
誰も反応しない。
子どもが笑いながら走り回る。
店員が商品の補充をしている。
聞こえているのは、自分だけだ。
耳を塞ぐ。
それでも歌は止まらない。
頭の奥で、静かに響き続ける。
---
夕方。
自宅へ戻ると、机の上に置いたICレコーダーのランプが点滅していた。
録音などしていない。
再生ボタンを押す。
ザーッ……。
数秒の無音。
そして、自分の声が流れた。
> 「気のせい……か。」
今朝、冷蔵庫の前でつぶやいた言葉だった。
悠真は凍りつく。
録音した覚えはない。
続いて、小さな女の子の声が聞こえた。
> 「まだ、気のせいだと思う?」
ブツッ。
録音は終わる。
何度再生しても、その女の子の声は二度と聞こえなかった。
---
夜九時。
真琴から電話が入る。
「相沢さん。」
「はい。」
「今日、歌が聞こえる時間は長くなりましたか?」
悠真は少し考えて答えた。
「昨日は一瞬だった。」
「今日は……何分も聞こえる。」
真琴は小さく息を吐いた。
「予定どおりです。」
「予定?」
「明日になると、機械だけじゃありません。」
「人の声も歌になります。」
その言葉に、悠真の背中を冷たい汗が流れた。
「そして、その次の日には……。」
真琴は言葉を切る。
「……その話は、明日にします。」
電話は静かに切れた。
---
深夜。
部屋の電気を消えると、冷蔵庫は暗闇の中で静かに唸っていた。
ブゥ────。
その音は、もう機械音ではない。
誰かが子守歌を歌っているようにしか聞こえなかった。
悠真は布団を頭までかぶる。
しかし歌は止まらない。
壁の向こうから。
天井から。
床下から。
家中の機械が、同じ旋律を奏ではじめていた。
そして午前零時。
歌はぴたりと止まる。
静寂の中、玄関のチャイムが一度だけ鳴った。
ピンポーン。
こんな時間に誰が──。
恐る恐るドアスコープを覗く。
廊下には誰もいない。
ただ床には、小さな録音機がひとつ置かれていた。
赤い録音ランプだけが、静かに点滅していた。
――第十三話「救急車」へ続く。




