72吉日
ユリは、何とか動こうと体に力を入れるが、何故か、眼球以外の全身は全く動かない。
老婆は桜色をもっと渋くしたような、あずき色の着物を上品に着ていた。
あずき色の羽織の下には、あずき色をもう一段渋くしたような色の着物を合わせており、帯は光沢のあるグレーの落ち着いた取り合わせだった。
老婆は小ぶりの、婦人用の扇を広げ、ユリの目の前で広げていて、それがユリの体が動かない事と関係があるようにユリは思った。
「ユリ、心配すんな。
俺たちゃあ大丈夫だ。
待ってな、すぐ助けるから」
良治が、艶のある革服を、全身真っ赤に仕上げた少女に、日本刀を鼻先に突きつけられ、動けないまま、ユリに語った。
少女は長い髪を後頭部の高い位置で結って、まとめていた。
その髪をまとめているのは、黒い革のベルトで、少女の手袋、ズボンのベルト、足にフィットしたブーツなどは黒革で統一していた。
「笑止。
この距離で剣を向けられ、あなたに何ができると言うのですか!」
少女は早口に、弾丸のように言葉を紡いだ。
良治の目が冷酷に光る。
こんなもんはピンチでも何でもねぇ…。
良治はあまたの鉄火場を乗り越えてきた武闘派影繰りなのだ。
鼻先にマグナムを突きつけられたこともあったし、何十人もの兵士を相手にしたこともある。
日本刀は確かによくできた斬撃用の武器ではあった。
ただし剣術使いたちは、己の武器を神聖視し過ぎているきらいがある。
影を纏った影繰りに対して、日本刀の斬撃は、圧倒的に優位、という訳にはいかないのだ。
近接戦闘用のバタフライの影ならば、完全に封じられるが、良治の影であっても、まあ鎖帷子程度の防御力には想定できた。
つまり、殴られた力まで防げないが、刃が通る事は無い。
ただし問題は大きく1つあった。
この女は影は纏っているが、影の力が何なのかは、まだ見せていないのだ。
それを見ないうちに軽率にゃ、動けねーな。
少女の影を見るためには、なにかで相手の意表をついて、防御をさせるのが手っ取り早い。
人間、咄嗟には己がいつも取っている行動、って奴が染み込んでいて、漏れ出るものからだ。
射程が長い影繰りならば、距離を取るだろうし、近接戦闘ならば受け止めようとするだろう。
良治は、タイミングを待った。
一方、バタフライは花園神社の鳥居の前に滑るように動きながら、老紳士の鞭を避けていった。
影繰りの戦いは一般人には見えないため、のんびり歩くカップルや、ビジネススーツの男三人組が仕事話で笑いながら、バタフライや鞭の老紳士の横を全く経過気もせずに通り過ぎていく。
この爺さんもプロのようだな…。
とバタフライも気が付いていた。
完璧に人混みの中で、人を避けながら、攻撃も全く人を掠りもしない。
ときにこういった戦闘でうっかり買い物客の下げ袋を破いてしまったり、手に持っていたパンフを弾いてしまう、などという不始末が起こる事もある。
だが、それは思うより影繰りにとって大きなミスに繋がりかねない。
普通に通り過ぎるはずの一般人が、立ち止まったり、また落とした買い物袋を拾おうとして屈んだり、予想外の動きをし始めるからだ。
だからベテランはそういったミスを起こさない。
そこはニューヨークであれ東京であれ同じだ。
一般人の知らない時間の中で、同じ空間の中、影繰りは戦うのだ。
バタフライは、地面を滑り始めている。
すると老紳士も予想を外れる動きのために、大きく動かざるを得なくなる。
スピードはエネルギーだ…。
バタフライは薄く笑いながら思った。
つまり、それが一旦、ぶつかるように重なったとき、思うよりずっと大きなダメージを相手に与えることになる。
バタフライは、花園神社に抜ける参道の中に滑り込んでいた。
良治もタイミングを計っていた。
「恐竜が出たって!」
と、どこかアミューズメントめいた興奮と共に、人々が良治の横を通り過ぎる。
良治がタイミングを計ると共に、剣の少女もすり足のまま、人を交わして、良治との力関係を変えないままに動いていた。
まぁ、子供にしちゃあ上出来だ。
だが、常にアクシデントには備えられるかな…?
良治のナイフは、別に特定の位置から出る訳ではない。
少し慌てた中年男性が、たぶん持ち慣れない大金でも持っているのだろうカバンを抱えるように歩いているのを、背中越しであるが良治はちゃんと発見していた。
男は急ぎ足で歩いていた。
おそらく明治通りでタクシーでも捕まえるつもりなのだろう。
必死の形相で道を急いでいる。
男のカバンの底に、良治は小さなナイフを発生させた。
ビリ、という音と共に、手に持っていた札束の形が崩れ、道路にこぼれそうになって男は慌てた。
両手でカバンを抱え直そうとする。
その瞬間、男は大きく横に飛んでいた。
少女は男から避けようとした。
影繰りが一般の通行人とぶつかるなど、初歩のミスだ。
何も無いところで転んだ、持っていたはずの財布を落とした、段差を踏み違えた、などのアクシデントの大半は、影繰りのミスで生まれる。
少女は、一瞬、剣を揺らがせた。
良治には充分な時間だった。
少女の脇腹に、ナイフが発生する。
ガッ!
痛みに少女が崩れた。
良治は、ロングスパンでは主にナイフを飛ばすのだが、こと至近距離でありば、相手の腹にナイフを発生させることもできる。
そして、それは影をいくら纏っていても、防御不能だ。
良治は容赦なく少女の纏めた長い髪を掴み、顔面に膝を叩き込んでいた。
普段なら、そのくらいで影繰りが大きなダメージを負う事は無いが、どてっ腹にナイフが刺さっているとなったら、話は別だ。
少女は吹き飛んだ。
更に連続攻撃を仕掛けよう、と良治が走ると、あずき色の着物の老婆が、良治の前に飛び出していた。
ユリは、にっこりと笑っていた。
バタフライと良治は、とても頼りになる。
僕は、こんなパートナーがいて、とても幸運だ!
そして今日、僕は小田切誠と再会する。
何て幸運な日なんだ!
ユリは3匹の虫を造り上げていた。




