59ヘックス画
キリュウの小さな体は完全に、広げた顎に隠れていた。
無数の犬歯がびっしりと並んだ、赤黒い顎だ。
ポリゴンにしては、湧き出す涎が妙にリアルだった。
川上は横に避けようとするが…。
噛みつきの射程距離は、およそ4メートル。
恐るべきはその幅で、頭が倍以上に肥大化することによって、川上を中心とした2メートル以上の範囲が、噛みつきの攻撃範囲になっていそうだ。
避けられない…。
ショットガンじゃあるまいし、攻撃範囲が2メートルの楕円形なんて、避けようがない。
これじゃあ漫画…、いやゲームのファンタジーではないか…。
一瞬絶望しかけるが、川上は、横に身を屈めた。
上からくる攻撃に、ジャンプをしては攻撃に当たりに行くようなものだ。
横に倒れて、斜めになりながらギリギリのタイミングで真横に低く跳ぶんだ…!
巨体な顎が、ゆっくりと川上に覆いかぶさってくる。
川上は、瞬きも出来ずに、そのゲームキャラのわりに生臭い牙の羅列を眺めながら、地面に倒れるギリギリで、足の力を開放した。
ジャンプすることを前提に倒れていたので、膝は最初から屈めてある。
腰の筋肉から太ももの筋肉、ふくろはぎ、爪先に力を伝えて…。
爪先で床を、しっかり掴んで、そして、跳ねた。
白銀に光る牙が、川上に振り下ろされてくる。
川上は、ただ地面と平行に飛ぶだけだ。
瞳孔の、数センチ先にキリュウの犬歯が鈍く光っている。
そして川上は、生臭い涎を全身に浴びながら、地下鉄の床にぶつかり、滑って、扉に肩から突っ込んでいった。
痛てぇ…!
と、瞬間思うが、大した衝撃は感じていない。
これはゲームの世界なのだ。
自分の体力ゲージを見上げる。
よし、ダメージは0だ!
何とか逃げ切った、らしかった。
だがキリュウも、何らダメージは受けていない。
あの速度で鉄の床に齧りついたなら、歯が欠けないにしろ、激痛ぐらい走りそうだ。
銀紙を噛んだだけであんなに痛いというのに、キリュウにもまるでダメージは無い。
このゲームの世界では、純粋に戦闘でのみ、ダメージは与えられるものなのだ。
川上は飛び上がるように跳ね起きて、また拳を顔の前に突き出した。
ガードを固めるポーズだ。
だが、このキリュウにガードは通じまい。
いや、多少は影響はあるのか?
判らないが、試す気分にはなれなかった。
今の噛みつきは、幸い、地下鉄のほぼ中央で受けられたので横に逃げられたが、今、川上は、扉を背にして立っていた。
ここであれを受けたら、もう逃げられない…!
キリュウはいつものように、顔と腕を交互に前に出すようにリズムを取っている。
あの顔を前に突き出す奇妙なポーズ。
今まで意味不明だったが、噛みつきを見せられると、妙に納得する。
キリュウというキャラクター。
これは、ほぼ噛みつきをメインに戦う戦闘スタイルなのだろう。
頭を前に出すのは、つまり、噛みつくぞ、というデモンストレーションのような動きなのだ。
だが、それなら、今まで使わなかったのは何故だろう?
この、ゲーム世界に川上を引き込むためか?
あのオタク男は、確か自分は太田のような人でなしじゃないから、予め影を見せる、と話していた。
その言葉の通りだと言うのならば、噛みつきも見せるべきだったんじゃないのか?
それをしないのは、オタク男も太田と同じ人でなしなのか、そうでないとするならば…。
噛みつきは何度も見せられないような、なにか重要な事情があるのだろうか?
格ゲーによっては、必殺技を出すのにゲージを貯める必要があり、わざとダメージを受けたりすることがある。
そう言う事だろうか?
或いは、実は噛みつきには欠点もあって、それを悟られたくなかった?
これがある意味、公平な格ゲーの世界であるなら、川上にもゲージが無ければおかしい。
さっき、スライディングは喰らったはずだ。
だがキリュウの上にも、川上の上にも、特にそれらしいゲージは見当たらない。
川上は、子供の頃から影繰りになるべく訓練を受け続けていたので、それほど格ゲーにハマったことは無かった。
せいぜい、友達の家に行ったり、友達のゲーム機を借りたりして遊んだぐらいだ。
だからオタク男が言っていたドーンファンタジーというのも、どんなゲームだか知らない。
いや、ヘックス画とか、相当なレトロゲームのはずだ。
到底川上が遊んだような、誰もが知っている格ゲーとは精度が違う。
いや…。
そもそもヘックス画の格ゲーなど、存在したのだろうか?
そんな古い話を知っている訳も無いのだが、昭和ゲームとかならあったのかもしれないが、オタク男も、それほどの歳には見えない。
着ている服装から言ってもせいぜい30ぐらいだろう。
平成は確か30年間だったのだから、オタク男は平成生まれか、昭和も終わりの頃の生まれのはずだ。
ヘックス画の格ゲーなんて、あったのか?
生まれる前の事など川上が知る訳も無いが、キリュウは、ちょっと矛盾を持ったキャラクターのように感じた。
たしかニュースでレトロゲームが遊べるミニと呼ばれるゲーム機が発売され、その時にニュースでスーパーファミコンは平成生まれ、というようなことを言っていたような気がした。
どうもキリュウは、それよりもずっと古臭い気がするのだ。
オタク男は、何しろオタクなのだから昔のゲームにまで通じているのかもしれなかったが、それをわざわざ好んで自分の影にするのか?
目の前のキャラが、川上も遊んだことのあるようなシリーズで続いている格ゲーなどなら判るが、自分が生まれるよりも前のゲームを、何故影繰りの主力にするのか?
むろん、影繰りは生まれてくる影を選ぶ事は出来ないし、うっかりレトロゲームが出て来てしまったまでの事なのかもしれなかったが、それでも、なぜミニにも入っていないようなマニアックなレトロゲームのキャラなのだろうか?
と、川上の耳が、微かなボタンの操作音を聞きとめた。
おそらく、必殺技ををコントローラーに撃ち込んだような、連続する素早い入力音だった。
そしてキリュウが、川上に向かってジャンプした。




