58本当の影
それは大江戸線というよりは、汎用の地下鉄路線のような、もっと言えば世紀末アメリカ、ニューヨークの地下鉄のような荒んだ場所に変わっていた。
いつ襲ってくるのか判らないゲームキャラが目の前にいるので、周囲まではっきりとは観察してはいなかったのだが、さっきまでは確かに大江戸線で戦っていたような気がする。
少なくとも、壁に汚らしいスプレーペイントで英語のスラングなどが書き殴られていなかったはずだし、そのスラングを描くスプレーの色も、日本ではまず見られないような、汚い緑、オリーブ色のようだ。
いかにも日本のヤンキーを巨大化させたような、白人黒人の、極悪人だと離れていても判るタトゥーまみれの男、女、老人、性別不明の者たちが、川上とキリュウの戦いを楽しそうに観戦していた。
まずいな…。
たぶん、この全てがあのオタク男の影なのだ。
ここに入ってしまったら、どうあってもキリュウを倒す以外、逃げようがない。
あのオタク男、さっきは頻りと川上に戦いを強要しようとしていたが、もしかすると、川上の攻撃が通り、キリュウの攻撃も通ることで、初めて本格的なオタク男の影が発動するものだったかもしれない。
それは普通の日本の地下鉄よりもかなり大きい車体の列車で、ほんとか架空か判らないが、座席を挟んだ扉側の空間は、川上がいつも使っているリングぐらいの広さはありそうだった。
その広々した空間でキリュウは、今までよりも立体的に、3Dポリゴンのように見えている。
相変わらず5頭身の頭でっかちで、身の丈は川上と同じぐらい、つまり体そのものは小学生ほどの貧困にも見える肉体だ。
だが、射程は変わらずメチャクチャで、小パンチが1メートル、ローキックが50センチ、伸びてくる。
しかし画像が立体的になったことで、川上に有利になった部分もあった。
巨大な頭を横に曲げて、大きく踏み込んだパンチを撃つようになったのだ。
前はヘックス画の途切れ途切れの姿だったので動きがよく判らなかったが、今は一連の動きが細かい所までよく見える。
これならばカウンターを狙う川上の戦術には好都合になる。
川上は厚手のジャンパーを脱ぎ、下のTシャツ1枚になった。
幸い、基地からいきなり外に出たので、膝が隠れるほどのハーフ丈のズボンで、足の動きを遮る事は無い。
川上はさっきまでより本格的に格闘の態勢になり、左腕を前にして、ゆっくりジャブのリズムを刻んだ。
キリュウは、たぶん狼男なのだろう、青みがかったグレイの体毛に覆われた男だ。
下半身はズボン状のものを履いているようだが、ポリゴンだから意味は無い。
この空間なら、必殺技も躊躇なく繰り出してきそうだった。
噛みつき、は思うに、あの巨大な顔で噛みつくのだろう。
大ダメージは必至だった。
炎のダンスは、射程がどれほどかが問題だ。
とにかく今は、何とかゲームキャラを倒さない事には、元の大江戸線には戻れない…。
逃げ回っていれば、誰かが助けてくれる、ハズだったんだけどなぁ…。
策にハマってしまった自分が愚かだったのだろう。
こうなったら、キリュウを倒すしかなかった。
キリュウは、盛んに小パンチを繰り出しながら1カ所に留まっていた。
たぶん俺がカウンターを狙っている事を、既に察しているのかもしれない。
オタク男は、この影で何度も戦ってきているんだ。
この前、影に目覚めたばかりの俺とは違う。
幸いなことに、ゲーム特有の賑やかな音楽などはかかっていない。
そして…。
遠くなったが、オタク男の息遣いとカチ、カチ、とボタンを押す音は、川上の常人の聴力をはるかに超えた犬耳が察知していた。
と、キリュウが滑るように、と言うか本当に地を滑って、大パンチを撃ってきた。
川上はパンチをよけながら、キリュウの顔に肘を撃ち込んだ。
キリュウが2メートルは跳んで、ダウンをした。
ゲームの世界なので、全てが大げさだ。
だが、俺もそうなるとしたら、注意が必要だ。
ダウンしたキリュウに、川上は可能な限り、ローキックを撃ち込んだ。
5発、6発と爪先が相手の脇腹にヒットしたところで、キリュウは突然、跳ねるように立ち上がった。
ゲームの、一定時間のダウンが解けたらしい。
つい夢中になっていたので、急に起き上がったキリュウに、川上は飛び跳ねる程驚いた。
全てが、現実ではありえない動きだ。
慌てて距離を取ったが、キリュウのダメージゲージは、おおよそ半分ほどに減っていた。
この調子なら、勝てないことも無い!
川上の心に希望が湧き上がってくるが、問題は必殺技だった。
オタク男は、多分意図して川上に必殺技を見せないでいたのだ。
おそらく、飛び蹴り以上の射程があるのかもしれない…。
そう考えると、川上は距離を取って、相手の隙を狙うしか方法が無かったが、オタク男もそれは判っているらしく、ただ小パンチを放ちながら、同じ場所に留まっていた。
睨み合いか…。
川上が、気を抜いたわけではないが一瞬、そう考えた瞬間、まるで読み取っていたかのようにキリュウは、その巨大な顔を半分に割いたように倍以上にも膨らませ、ジャンプして、一瞬で川上を飲み込むほどに飛びかかり、接近してきた。
噛みつき、だ…!




