第1話 数字の夜
本作はフィクションです。登場する人物・団体・事件は実在のものとは関係ありません。
作中の被害想定は、公開されている各種試算を参考にした架空の設定です。
戦争・災害による死傷の描写を含みます。
数字には体温がない。
だから俺は、この二年間、数字だけを見て生きてこられた。
『第一次台湾海峡戦争に関する国家検証報告書』。全十四章、本文千二百ページ、付属資料を含めれば三千ページを超える。その最終稿が、いま目の前のプリンタから吐き出され続けている。
二〇三一年十月二十一日、午後十一時四十分。中央合同庁舎の地下二階、国家戦災検証委員会事務局。天井の蛍光灯は半分しか点いていない。節電令はとっくに解除されたのに、誰も元に戻そうとしなかった。暗さに、みんな慣れてしまったのだ。
排紙トレイから第三章の束を抜き取る。
人的被害。
自衛官戦死者、二千百十四名。行方不明者、三百八名。
民間人死者、三千九百六十二名。うち先島諸島、千七百四十一名。
千七百四十一。
その中に、二つの名前が入っている。
砂川早苗、六十一歳。
砂川美月、二十九歳。
母と妹だ。
付属資料の名簿は五十音順に並んでいる。「す」の欄は、校正のたびに指でなぞったせいで、印字が少しかすれていた。
二〇二九年三月三十日、政府は武力攻撃予測事態を認定した。翌三十一日から、先島諸島の住民と観光客、約十二万人の避難が始まった。一日二万人、六日間。九州と山口の三十二市町が受け入れる。何年も前から準備されていた計画だった。
計画そのものは、間違っていなかったと思う。
間違っていたのは、六日という時間を相手がくれると信じたことだ。
四月二日、午前五時十二分。避難三日目の朝。
宮古空港の滑走路と、平良港の岸壁近くに弾道ミサイルが落ちた。港には、第三便のフェリーを待つ列ができていた。
港の監視カメラの映像は、検証のために三十回以上見た。
二人の姿は映っていなかった。
映っていないことを確かめるために、三十回見た。
俺はその日、市ヶ谷の地下にある中央指揮所の隅で、被害集計の端末を叩いていた。宮古島の欄に数字が入り始めたとき、指は止まらなかった。止めなかったのではない。止め方がわからなかったのだ。
だから俺は、たぶん、そういう人間なのだろう。
第五章、防衛。
航空自衛隊の航空機、損失百十八機。うち八十一機は、開戦から七十二時間以内に地上で失われた。那覇、築城、新田原。掩体を持たない駐機場に、機体はきれいに並んでいた。
海上自衛隊の艦艇、損失二十六隻。
長射程の精密誘導弾は、開戦九日目に在庫の底が見えた。
第八章、経済。
開戦初年度の実質GDP、マイナス十一・八パーセント。
台湾からの半導体輸入が止まり、国内の自動車生産は四月第二週にほぼ全面停止した。
電力会社のLNG在庫は、開戦時点でおよそ二百万トン。二週間分に満たない。中国が日本の南西海域で船舶の航行を妨害し始めると、保険会社は日本向けタンカーの引き受けを止めた。首都圏の計画停電は八十七日続いた。
石油の備蓄は二百五十日分あった。だが、備蓄があることと、ガソリンスタンドに軽油が届くことは、まったく別の問題だった。
第十二章、総括。
中国人民解放軍による台湾本島への上陸作戦は失敗した。台湾は自治を保った。日本の主権も守られた。
日本は、敗れなかった。
この一文を書くのに、委員会は三週間揉めた。
「勝利」という言葉を使うべきだという委員がいた。使ってはならないという委員もいた。最終的には、俺の書いた案が通った。
――日本は敗れなかった。だが、勝ってもいない。
「砂川君」
背後から声をかけられた。委員長の鷲尾だ。元統合幕僚長で、七十を過ぎている。開戦時は退官して五年目で、ニュースで戦争を見ていた側の人間だ。
「まだいたのか。第十四章、また書き直したそうだな」
「はい」
「提言の章だ。『次の有事に備えて』で十分だと言ったはずだが」
「それだと遅いので」
鷲尾は眉を上げた。俺は第十四章の束を差し出した。
第十四章、提言。
ただし、未来に向けた提言ではない。
「いつ、何をしていれば、この数字はいくつになったか」。
それを、開戦の十年前から一年ごとに並べた。
二〇一九年――主要航空基地の掩体化と、機体の分散配置の研究に着手していれば。
二〇二〇年――長射程弾薬の国内生産ラインに投資していれば。
二〇二一年――LNGを国家として備蓄する制度を作っていれば。
二〇二二年――半導体の国内生産を、補助金ではなく安全保障として位置づけていれば。
二〇二四年――避難計画を六日ではなく、予測事態の認定より前に動かせる仕組みにしていれば。
ページをめくりながら、鷲尾は長いあいだ黙っていた。
「……砂川君。これは報告書じゃない。後悔の目録だ」
「同じものです」
「国民が読むんだぞ」
「だから書いたんです。国民は、知る権利があります。助かったはずの数を」
鷲尾は束を閉じ、机の上に戻した。叱られるかと思ったが、老人はただ、俺の肩に一度だけ手を置いた。
「明日の朝、総理に手渡す。今夜は帰れ。……家はあるんだったな」
「官舎に」
「そうか」
それ以上は何も言わず、鷲尾は暗い廊下へ消えていった。
帰らなかった。
帰る理由が思いつかなかった。
プリンタが最後の一枚を吐き出して止まる。静かになった地下室で、俺は第十四章の最初のページを、もう一度開いた。
二〇一九年。
あの年、俺は防衛省に入ったばかりの新人だった。何も知らなかった。台湾海峡の向こうで何が積み上がっているかも、自分の島がいつか前線になることも。
母からは、入省式の日に電話があった。宮古の家の庭で、ブーゲンビリアが咲いたと言っていた。俺は「忙しいから」とすぐ切った。
あれが、ちゃんと話した最後の電話だったかもしれない。
十年あれば。
十年あれば、この目録の一行目から、全部やり直せる。
馬鹿げた考えだと思った。報告書の最終稿を前にして、三十六歳の男が考えることではない。
それでも、頭の中で数字が勝手に並び替わっていくのを止められなかった。百十八が、六十に。二十六が、十五に。千七百四十一が――。
そこで、意識が途切れた。
桜の匂いがした。
目を開けると、まぶしかった。地下の蛍光灯ではない。四月の、白っぽい朝の光だ。
人の声がする。ざわめき。紺色のスーツの群れ。
俺は、パイプ椅子に座っていた。
「――新規採用職員は、前方の席から詰めてお座りください」
マイクの声。正面の壇上に、横断幕が掛かっている。
『平成三十一年度 防衛省 新規採用職員 入省式』
平成。
平成三十一年。
膝の上に、薄いクリアファイルがあった。中の名札に、自分の名前が印字されている。砂川透。所属、防衛政策局。
ジャケットの内ポケットを探ると、古い型のスマートフォンが出てきた。画面には、こう表示されていた。
二〇一九年四月一日(月) 八時五十二分
手が震えた。
隣の席の同期が、心配そうに覗き込んでくる。たしか、この男は三年後に辞めて、商社へ行ったはずだ。名前は思い出せない。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
「……今日、何かあるよな」
「は? 入省式だろ」
「いや。十一時半過ぎに」
同期は少し考えてから、ああ、とうなずいた。
「新元号の発表か。何になるんだろうな」
知っている。
俺は、その二文字を知っている。
式の段取りは何ひとつ頭に入らなかった。休憩のあいだに廊下の端へ逃げ、震える指で、短縮ダイヤルの一番目を押した。
呼び出し音が三回。
「――はいはい、透? どうしたの、今日は式でしょう」
母の声だった。
何か言おうとして、何も出てこなかった。喉の奥が詰まって、息を吸うことしかできない。
「透? 聞こえてる?」
「……聞こえてる」
「あんたね、ちゃんとご飯食べてるの。美月がね、来年は那覇の会社受けるって。あ、それと庭のブーゲンビリア、今年はすごいのよ。写真送ろうか」
「送って」
「え?」
「写真、送って。……全部、送って」
母は少し笑った。どうしたのよ、と言いながら、嬉しそうだった。
電話を切ったあと、ロビーのテレビの前に人が集まり始めていた。十一時四十一分。官房長官が、白い紙を掲げる。
『令和』
周りから小さな歓声が上がった。
俺は、その二文字が当たったことよりも、もっと別のことを考えていた。
二〇一九年四月一日。
開戦は、二〇二九年四月二日。
残された時間は、十年と一日だ。
報告書の数字は、全部覚えている。
二千百十四。百十八。二十六。三千九百六十二。千七百四十一。
俺はこれから、この数字を一つずつ減らしていく。




