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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第九章 地と人

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第3話:帯の詔(みことのり)

 ――建安五年(二〇〇年)正月、許。


 董貴人(とうきじん)は、父の帯を、一度だけ、間近に見たことがあった。

 去年の冬のことである。宮から下がる父を、庭の途中で呼び止めた。父は、立ち止まって、娘の顔を見た。それから、腰のあたりへ、手をやった。用のない手つきだった。何かを確かめて、確かめたことを悟られまいとする者の、手つきだった。

 父の名を、董承(とうしょう)という。車騎将軍という、都の兵を束ねる位にあった。天子の身内である。董貴人は、その娘として、後宮に入っていた。


 その帯の中に、何が縫い込まれていたのかを、董貴人が知ったのは、ずっと後だった。

 詔である。

 天子が、みずから、書かれた。曹操を除け、と。それを、帯の裏に縫い込んで、父に賜った。詔とは、本来、尚書の役所を通り、幾人もの名を並べ、印を押して、堂々と下されるものだ。それが、衣の帯に縫い込まれて、人目を忍んで、宮を出た。

 天子の言葉が、そういう形でしか、外へ出られなくなっていた。


 父は、人を集めた。

 王服(おうふく)という官がいた。ほかにも、宮に近い者が、幾人か、名を連ねた。そして、その中に、一人、都に来て間もない客将がいた。

 劉備である。

 その頃、劉備は、曹操に厚く遇されて、許にいた。同じ車に乗り、同じ席で語らったという。その男が、父の連ねた名の中に、いた。父は、それを、大きな力を得たように喜んでいた、と後で聞いた。

 だが、劉備は、待たなかった。

 南の袁術を迎え撃つという役を得て、兵とともに許を出ると、そのまま、徐州で叛いた。父の謀の、事が起こるより先に、である。曹操は、みずから兵を率いて東へ出て、劉備を追い散らし、正月には、もう都へ戻ってきていた。

 残されたのは、父と、宮の内の幾人かだけだった。


 謀は、漏れた。

 誰が漏らしたのかを、董貴人は、知らない。知る前に、事は済んでいた。

 その朝、宮の外が、いつもと違う静けさになった。人の声がしない代わりに、足音だけが、多かった。兵が入っている、と女官が震えながら告げに来た。父は、その日のうちに、捕らえられた。王服も、ほかの者も、みな捕らえられた。裁きらしい裁きは、なかった。

 父の一族は、根こそぎ、断たれた。


 次は、この身だ、と董貴人は思った。

 思って、腹に、手を当てた。子が、いた。もう、腹の目立つころだった。父が帯を気にしていた冬から、季節が、一つ、めぐっていた。

 その腹を、天子は、庇われた。

 殿の内で、天子が、乞われるのを、董貴人は、戸の外から聞いた。


「腹の子に、罪はない。産むまで、待たせてやってはくれぬか」


 天子が、臣に、乞うておられた。

 声が、返ってくるのが、聞こえた。低く、短い声だった。何と言ったかは、聞き取れなかった。ただ、その声のあとで、天子の言葉が、また、始まった。


「産むまででよい。産んだあとのことは、そちらの決めるままに」


 一度ではなかった。同じことを、幾度も、繰り返された。


 董貴人は、目を、閉じた。

 いちばん高いところに、この方は、座っておられる。朝には、百官が地に額をつけて拝む。その音を、董貴人は、後宮の奥で、幾度も聞いた。拝む音は、大きかった。あの音の下にいる方が、いま、一人の女の腹の子のために、頭を下げて、乞うている。そして、聞き入れられない。

 拝む音が大きいほど、その身には、力がない。

 董貴人は、そのことを、この日、はっきりと知った。知って、不思議と、天子を恨む気には、ならなかった。この方は、できることを、された。詔を、帯に縫い込んで出された。父は、それを、腰に巻いて、外へ運んだ。二人とも、できることを、した。それが、この宮で、できることの、すべてだった。


 迎えは、日が高くなってから来た。

 殿から、引き出された。廊を通るとき、董貴人は、一度だけ、顔を上げた。天子が、坐っておられた。立ち上がりも、目を逸らしもせずに、こちらを、見ておられた。

 その目を、董貴人は、覚えて、行こうと思った。

 庭に出ると、冬の日が、白かった。腹の子が、動いた気がした。気がしただけかもしれなかった。董貴人は、腹に手を当てたまま、歩いた。歩きながら、あの帯のことを、思っていた。父の腰にあった、あの帯を。あれさえ、なければ。いや、あれが無ければ、この宮には、天子の言葉を外へ運ぶ道が、一本も、無かった。


 その年の正月に、都で何が起きたかを、天下は、さして騒がなかった。

 春には、もう、誰もが北を向いていた。袁紹の大軍が、河を越えようとしていた。曹操は、東の憂いを断ち、内の謀を断ち、身軽になって、その北の大軍に向き直った。都の内で断たれた首の数は、官渡(かんと)の野に積まれる屍の数に比べれば、数えるほどでしかなかった。

 ただ、天子だけが、それを、忘れなかった。

 この日、乞うて聞かれなかったという一事を、天子は、その後の生涯、腹の底に置きつづけることになる。十四年の後、同じ宮の同じ廊を、もう一人の女が、髪を掴まれて引かれていくとき、天子は、この日の自分を、思い出すことになる。

 だが、それは、まだ、先の話だった。


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