第4話:容れられぬ策
――建安五年(二〇〇年)正月、冀州。
その朝、府の庭で、田豊が、杖で地を打った。
乾いた、短い音だった。二度、打った。沮授は、少し離れた廊から、それを見ていた。
前の夜から、幕の内では、同じ話が続いていた。
曹操が、東へ出たのである。徐州で叛いた劉備を討つために、許の兵を、あらかた連れて出た。背中が、空いている。田豊は、それを聞いたその日のうちに、袁紹の前へ出て、いま許を襲え、と説いた。曹操の背には、いま、誰もいない。この一手で、天下が決まる、と。
袁紹は、聞き終えて、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「子が、病んでいる」
それだけだった。
末の子の袁尚が、熱を出して、幾日か寝込んでいた。父は、その枕元から、離れようとしなかった。
田豊は、退がって、庭へ出て、地を打った。
「めったに来ない好機に出会いながら、幼子の病で、その機を逃された。惜しいことだ」
沮授は、何も言わなかった。
言うべきことは、田豊が、もう言っていた。曹操は東で片をつけ、正月のうちに、許へ戻った。空いていた背は、閉じた。二度と、あの形にはならない。
この人は、機を逃したのではない、と沮授は思った。機というものを、量りにかけていないのだ。子の熱と天下とを並べて、重いほうを取ったのではない。並べること自体を、していなかった。
沮授は、袁紹の下で、久しく軍を束ねてきた。
袁紹は、四世にわたって三公を出した名門の当主である。河北の四州を併せ、兵は十万を数え、穀は倉に満ちていた。天下の半ばは、もう袁紹のものだ、と誰もが思っていた。その袁紹が、いよいよ南へ――許の曹操を討つために、大軍を動かそうとしていた。
沮授は、それを、性急に過ぎると見た。
「我らは、地も、兵も、穀も、曹操に勝っております。ならば、急ぐ必要はない。河を挟んで長陣を敷き、少しずつ兵を出して、境を荒らし、曹操を疲れさせればよい。三年もあれば、戦わずして、勝てます」
沮授は、そう説いた。
持久である。豊かな側が、乏しい側を、時間で干上がらせる。理にかなった策だった。
郭図が、すぐに、退けた。
「兵書に、十倍あれば囲み、五倍あれば攻める、とあります。我らは、その十倍を持っている。主公の武と、河北の厚い兵とをもって曹操を討つのは、手のひらを返すようなものです。それを、三年かけて、じわじわと。……その三年のあいだに、あの男が何を集めるかを、お考えになりましたか。あの男は、今日いない兵を、明日、田から作る男です」
審配が、同じことを、別の言い方で言った。
三年、境を荒らし続けるには、その三年ぶんの糧を、河北の郡から出させ続けねばならない。出させれば、郡が痩せる。郡が痩せれば、州が揺れる。速く勝つほうが、家々の負担は、軽い――そういう言い方だった。
座の多くが、うなずいた。
沮授は、そのうなずきの数を、見ていた。持久を退けたのは、袁紹の好みだけではない。この陣の者の多くが、三年を、長すぎると思っている。名門の兵は、勝つために集まったのではない。勝ったあとの分け前のために、集まっている。三年は、その分け前を、遠くしすぎる。
だが、袁紹は、聞かなかった。名門の大軍で、一気に押し潰す。それが、袁紹の望む勝ち方だった。じわじわと締めるような、地味な勝ち方を、この名門の当主は、好まなかった。
沮授は、もう一つ、説いた。
名分である。いま兵を出せば、天子を奉じる者を討つ側になる。その一点を、先に片づけておかねばならなかった。
「まず、許へ使いを立てるのです。公孫瓚を平らげたことを、天子に申し上げる。それが通れば、我らは、朝廷に功を報じた臣になります。通らねば――曹氏が、我らと天子とのあいだの道を塞いでいる、と天下に上表する。そのうえで、討てばよい。手順さえ踏めば、同じ兵を、賊としてではなく、道を開く軍として、出せます」
袁紹は、それも、聞かなかった。
使いを立て、返事を待ち、上表を作り、また待つ。そのあいだに、季節が一つ、動いてしまう。煩わしい、という顔だった。
沮授は、その顔を、四年前にも、見ていた。
天子が飢えて、東へ落ちてきた年である。あのとき沮授は、天子を迎えて号令せよ、と説いた。袁紹は、拾わなかった。近くに置けば、いちいち上奏して指図を仰がねばならず、煩わしい、と言って。
拾うのも煩わしい。作るのも、煩わしい。
この人は、名分を欠いているのではない、と沮授は思った。名分というものは、手続きの積み重ねでしか、できあがらない。その手続きを、この人は、四年前も、今日も、面倒がっている。それだけのことだった。
田豊は、もっと強く諫めた。
「いま、天子は許にあります。曹操を急に攻めれば、天子を奉じる者を討つ賊、という名を負う。持久して、内を固め、遊軍で曹操を苦しめるべきです。決戦を急いではなりませぬ」
袁紹は、田豊の強諫を、疎んだ。
軍の心を挫く言だ、として、田豊を獄に繋いだ。出陣の前に、諫めた者を、牢へ入れた。
沮授は、それを見た。
そのうえ、沮授自身の握っていた兵権も、割かれた。郭図という者が、沮授は権を持ちすぎる、と袁紹に吹き込んだからだ。沮授の軍は、三つに分けられ、その一つだけを、沮授が率いることになった。
沮授には、その割り方の裏が、見えていた。
出陣に先立って、袁紹は、四つの州を、身内で分けていた。長子の袁譚に青州を。次の子の袁熙に幽州を。甥の高幹に并州を。そして、本拠のある冀州は、末の子の袁尚が、父の傍らで見る。四世三公の家が集めた版図を、三人の子と、一人の甥とで、分けて治めさせる。
袁紹は、それを、身内で固めるのだ、と言った。
沮授は、諫めた。
「禍は、ここから始まります。一人の子に一つの州を持たせれば、その州は、その子のものになります。分けたものは、あとで、束ね直せませぬ」
袁紹は、笑った。
子らの器量を、それぞれ見てやりたいのだ、と言った。それだけだった。
分けられたのは、州だけではなかった。
人が、分かれていた。郭図と辛評は、いつのまにか、青州の袁譚のほうを向いている。審配と逢紀は、父の傍らに残る袁尚のほうを向いている。同じ幕で、同じ戦の話をしていながら、この者たちが見ているのは、この戦の先だった。袁紹の後に、誰が立つか。それだけを、見ていた。
沮授の兵権が三つに割かれたのも、その線の上にあった。
いま権を持ちすぎている者は、後継の争いになったとき、どちらにも組みしない厄介な重しになる。だから、先に、軽くしておく。郭図の告げ口は、私怨ではない。布陣だった。
曹操と向き合う前に、この陣は、もう、内側で二つに分かれかけていた。
出陣の日取りが決まると、幕の話は、先鋒に移った。
まず、白馬を取る。河を渡ってすぐの、東郡の城である。太守の劉延が、少ない兵で守っている。そこを抜けば、渡し場が、そっくり味方のものになる。
先鋒は、顔良に。袁紹は、そう決めた。
沮授は、進み出た。
「顔良は、気が短く、思いつめる質です。勇はありますが、独りで任せてはなりませぬ」
袁紹は、面倒そうな顔をした。
それから、では、誰と組ませる、と訊いた。
名が、二つ挙がった。郭図と、淳于瓊である。三人で行かせる、ということで、座は、収まった。沮授の諫めは、聞き届けられた形になった。
沮授は、退がりながら、収まらなかった。
組ませることと、任せぬこととは、違う。三人の名を並べても、いちばん前に立つ旗は、一つしかない。前へ出るのは、いちばん急く一人である。あとの二人は、その一人が急くのを、後ろから見ていることになる。
分けて、薄める。
四つの州を、子と甥とで分けた。沮授の兵を、三つに分けた。そして、先鋒の将を、三人に分けた。この人は、決めるという仕事を、分けることで済ませている。分ければ、誰も、強くなりすぎない。その代わり、誰も、止められない。
沮授は、出陣の夜、一族を集めて、家財を分け与えたという。
「勝てば、我が家の威は増そう。だが、負ければ、身一つも残るまい」
沮授には、見えていた。
豊かで、大きく、名門で――それでいて、賢い策を握りつぶし、諫めた者を牢へ入れて出陣する。この軍は、地も兵も穀も勝っているのに、いちばん大事な一点で、負けている。上に立つ者が、賢い言を、聞かない。それだけで、この大軍は、砂の楼閣だった。
なぜ、こんな主に、なお従うのか。
沮授にも、うまくは言えなかった。ただ、この家に仕えると決めた日から、賢い言を尽くすことだけが、己の務めだった。容れられぬと知りつつ、尽くす。尽くして、砂の楼閣とともに、崩れる。それが、沮授の選んだ道だった。




