第10話:血を吐く帝
――建安四年(一九九年)、寿春の北。
仲という国は、二年で、枯れ果てた。
閻象は、その最後を、袁術のそばで見た。曹操にも呂布にも敗れ、寿春の穀は尽き、領民は草の根を掘って食い、ついには人が人を食う惨状になった。帝を名乗った袁術のもとに、もう、従う者は、わずかしか残っていなかった。
袁術は、ついに、帝の位を、捨てる気になった。
北の袁紹――かつて反目した、いとこのもとへ、身を寄せようというのだ。帝号を、その袁紹に、譲る。迎えの兵は、袁紹の子の袁譚が、青州から出す、という。そうして、生き延びる。名門の当主の、最後の縋りだった。玉座を捨て、璽を抱えて、袁術は、北へ向かった。
だが、道は、険しかった。
落ちぶれた帝の一行に、行く先々の地は、冷たかった。食も、水も、乏しかった。夏の暑い盛りに、袁術の一行は、江亭という場所で、立ち往生した。
袁術は、喉が渇いた。
蜜を溶いた水が飲みたい、と袁術は言った。かつて、玉座の周りに絹と肉を溢れさせた男が、いま、一杯の蜜水を欲しがった。だが、蜜など、どこにも無かった。残っていたのは、麦の屑を混ぜた、濁った水だけだった。
閻象は、その濁った水を、袁術に差し出した。
袁術は、それを見て、寝台の上に身を起こし、しばらく、黙っていた。それから、絞り出すように、言った。
「この袁術が、こんなところまで、落ちるとはな」
それが、最後だった。
袁術は、寝台から地に伏し、血を、桶にたまるほど吐いて、死んだ。四世三公の名門の当主、帝を名乗った男の最期が、これだった。
閻象は、その傍らに、伝国璽が転がっているのを見た。
天子が代々受け継ぐ、天下の証。袁術が、天に選ばれた証と信じ、抱え続けた玉の石。その璽は、主を失って、乾いた地の上に、ただ、転がっていた。やがてこの璽は、人の手から手へ渡って、許の――曹操の握る朝廷へ、戻っていくことになる。だが、それを、このときの閻象は、まだ知らない。
閻象は、痩せ細った帳面を、閉じた。
名分もなく帝を名乗った袁術は、血を吐いて死に、辺境の武で起った公孫瓚は、火に焼かれて死に、地盤なき武で駆けた呂布は、縄にかけられて死んだ。滅びゆく者たちの、弔いの鐘が、この一、二年のあいだに、次々と、鳴り終えた。
残ったのは、天子という名分を、制度として握った者――許の曹操と、河北で肥え太る袁紹と。天下は、もう、この二人の、正面からの決着へと、収斂しようとしていた。
閻象は、閉じた帳面を抱えて、静かに、その場を立ち去った。
第八章 弔鐘 ――完。




