第9話:偽りの火
――建安四年(一九九年)、幽州易京。
その音を、関靖は、朝、東の丘の下で聞いた。
土を掘る音ではなかった。もっと鈍い、地面の下を、何かが這っているような音だった。塹の底に耳をつけていた兵が、顔を上げて、青くなった。
袁紹の軍が、地の下に、道を掘っていた。
やり口は、その日のうちに知れた。袁紹の兵は、楼の建つ丘の下まで、横に道を掘り進める。掘りながら、天井を木の柱で支えていく。丘の真下、半ばまで届いたところで、その柱に火をかける。柱が焼け落ちれば、上の土が落ちる。土が落ちれば、その上の楼が、そのまま傾いて崩れる。
三日目に、東の外れの楼が、一つ、消えた。
音は、思っていたよりも小さかった。ずん、と地が沈むような音がして、あとは、土煙だけだった。外側の塹から、一つずつ。楼は、順に、内へ向かって消えていった。
中央の楼から、公孫瓚が降りてきた。
二年ぶりに見る主だった。関靖は、その顔を見て、息を呑んだ。太っていた。日に当たっていない、白く膨れた顔だった。それでいて、目だけが、昔のままだった。
「精鋭を選んで、囲みを破る。西の山へ抜けて、黒山の軍と結ぶ。外から、袁紹の背を突く」
関靖は、地に膝をついて、それを止めた。
「殿が城をお出になれば、易京は、その日のうちに落ちます。ここに残る将も兵も、みな、この城の中に家族を置いております。殿がおられるから、家族のために持ちこたえているのです。殿が出られたと知れれば、誰も、塹の一重すら守りません」
公孫瓚は、しばらく、関靖を見下ろしていた。
それから、うなずいた。うなずいて、また、楼へ上がっていった。
関靖は、その背を見送りながら、自分がいま何を言ったのかを、考えた。理屈は、通っていた。この城の中で通ってきた理屈は、いつも、同じ形をしている。
援軍を、待つことになった。
公孫瓚は、子の公孫続を、早くに城から出していた。黒山の張燕のもとへ、援けを乞いに行かせたのである。張燕は、西の山に十万を養う総帥である。辺境の武を頼れる相手は、もう、そこしか残っていなかった。
やがて、公孫続から、返事が来た。
関靖は、それを縄で上へ送り、下ろされてきた返書を、封をする前に読んだ。読むのが、長史の役である。
文には、こう書いてあった。兵を率いて易京の北まで来たならば、まず、北の低い野で火を上げよ。その火を合図に、こちらは楼を出て、内から袁紹の陣を突く。挟んで、破る。
関靖は、その文を封じた。
封じながら、手が、少し止まった。この一通が途中で誰かの手に落ちれば、合図は、そのまま敵の道具になる。だが、送らねば、援軍と、日と、刻とを、合わせようがない。関靖は、封じて、使いに持たせた。
使いは、帰ってこなかった。
五日後の夜、北の野に、火が上がった。
関靖は、楼の上から、それを見た。低いところに、赤い点が三つ。約束どおりの数で、約束どおりの場所だった。城の中が、いっせいに、ざわめいた。
上の楼から、女の声が降りてきた。
もう、稽古の声ではなかった。裏返って、震えていた。それでも、内容は、はっきりと聞き取れた。門を開け、と言っていた。
公孫瓚が、出た。
夜の野へ、易京の兵が、なだれ出た。
火の方角へ、まっすぐ走った。関靖は、楼の上に残って、それを見送った。松明の帯が、闇の中を、細く長く伸びていく。
その帯が火のところまで届く少し前に、両側の闇が、動いた。
伏せていたのだ。袁紹は、奪った文を読み、書かれたとおりの場所で、書かれたとおりの数の火を焚いた。焚いて、その火の手前の草の中に兵を伏せて、待っていた。援軍の火だと信じて走る者は、走ることしか、していない。
松明の帯が、真ん中から、切れた。
あとは、闇の中で、音だけが続いた。関靖は、それを、楼の上で、最後まで聞いていた。
公孫瓚は、明け方に戻ってきた。出ていった兵の、幾らも連れていなかった。
張燕は、来ていた。
あとで知れたことである。張燕と公孫続は、十万を集め、三つの道に分けて、易京へ向かっていた。山の賊が山を降りて、十万で、辺境の武人を救いに来ていたのだ。
だが、その十万は、間に合わなかった。
三つに分けた道の、どれか一つでも早ければ、と関靖は、あとで幾度も思った。間に合わなかった理由は、単純だった。合図の火が、本物より、先に上がったのである。
地の下の音が、真ん中の丘まで来た。
柱の焼ける匂いが、塹の底から立ちのぼった。もう、逃れられぬと、楼の上でも知れたらしかった。
公孫瓚は、中央の楼で、まず、姉妹と、妻と、子とを、みな自らの手で殺した。それから、積み上げた楼に、火を放った。
関靖は、少し離れた楼の上から、その火を見た。
十丈の楼が、下から焼けていった。炎が窓を抜けて、赤い舌になって上へ伸びる。関靖は、その窓を、じっと見ていた。
声が、しなかった。
毎朝、そこから降りてきた声である。数百歩先まで届くよう、腹から出す稽古をさせられた声である。その声が、この朝は、一度も聞こえなかった。
袁紹の兵が、燃える丘を駆け上がっていった。
登って、炎の中から公孫瓚を引き出し、その首を斬った。北の辺境で胡を震わせ、白馬の一隊で天下に名を上げた男の最期が、それだった。
関靖は、楼を降りた。
馬を引かせ、鞍に乗った。老いた長史に、逃げる先は無かった。逃げる気も、無かった。
傍らの兵が、袖を掴んだ。どちらへ、と訊いた。関靖は、その手を、静かに外した。
「聞いたことがある。人を危ういところへ落とし込んだ者は、必ず、その難を共にするものだ、と。あのとき、城を出ようとされた殿を、引き留めたのは、私だ。引き留めておいて、私だけが生き延びるわけには、いかない」
関靖は、馬の腹を蹴った。
背に、燃える易京の熱があった。前には、袁紹の大軍がいた。関靖は、その大軍のほうへ、ただ一騎で、駆け込んでいった。
易京の楼は、その日のうちに、一つ残らず倒れた。
千の楼と、三百万石の穀と、十一重の塹と。天下が変わるのを待つために積み上げられたものは、天下が変わるより先に、すべて、地に伏せた。




