第4話:水の底の城
――建安三年(一九八年)、徐州下邳。
陳宮は、水の上がってくる城壁の上に、立っていた。
曹操が、下邳を囲んでいた。呂布の籠もるこの城を、力攻めでは落とせぬと見ると、曹操は、川の水を引いた。沂水と泗水の流れを、堰き止めて、城へ向けたのだ。荀攸と郭嘉の策だという。水は、じわじわと、下邳の城を、沼の中の孤島に変えていった。
城の中の兵は、水と、飢えとで、日ごとに萎えていった。
陳宮は、その水を見下ろしながら、幾度も、自分に問うた。
なぜ、自分は、いま、ここにいるのか。
陳宮は、もともと、曹操の側にいた。兗州の役所を説いて回り、あの家柄の低い男を、一州の主に担ぎ上げたのは、この自分だった。世に二人とない才の持ち主だ、と信じて。
だが、曹操は、変わっていった。いや、変わったのではない。もとから、そういう男だったのだ。辺譲という名士を、口が過ぎたというだけで殺した。徐州では、父の恨みに、州ひとつを屠った。泗水を屍で滞らせた、あの男だ。陳宮は、自分が担ぎ上げた男の底を見て、怖くなった。この男に天下を取らせては、ならぬ、と。
だから、陳宮は、曹操を裏切った。呂布を担いで、兗州を裏返した。
呂布は、当代に並ぶ者のない武の持ち主だった。
だが、陳宮は、下邳の城で呂布と過ごすうちに、思い知った。この男には、武のほかに、何も無い。地盤も、大義も、人を束ねる芯も。
水が上がる前に、陳宮は、一つ、策を献じている。
「将軍は、騎を率いて、城の外へ出られませ。私と高順が、城を守ります。外と内とで、挟みまする。囲む側は、二つを同時には、押さえられませぬ」
呂布は、うなずいた。
うなずいて、奥へ入った。しばらくして出てくると、首を振った。
「妻が、承知せぬ」
それだけであった。
当代に並ぶ者のない武が、奥の一言で、城の中に留まった。陳宮は、それ以上、言わなかった。言っても、同じ奥へ、また入るだけである。強いだけの、空っぽの器だった。
曹操には、才がありすぎて、怖かった。呂布には、才が無さすぎて、頼りなかった。
陳宮は、水の底に沈んでいく城の上で、苦く笑った。才を怖れて逃げ、才の無い男のもとで、いま、溺れかけている。これが、自分の選んだ道だった。愚かだと、分かっていた。分かっていて、それでも、陳宮は、この城を出て、曹操のもとへ這い戻る気には、どうしても、なれなかった。




