第1話:轅門(えんもん)の戟(げき)
――建安元年(一九六年)、小沛。
小沛に戻された劉備の軍は、また、はじめからだった。
陳到は、その建て直しの中にいた。下邳を奪われ、妻子を奪われ、奪った当の呂布に頭を下げて、かつて自分が呂布を置いた小沛に、こんどは自分が置かれる。屈辱という言葉では、足りなかった。それでも劉備は、腐らなかった。近隣の村を回り、散った兵を呼び戻し、新しい者を入れ、数千の列を、また作った。
陳到には、それが、不思議でならなかった。
同じ男が、同じことを、何度でもやる。土地を失うたびに、人を集め直す。集め直せる、というそのことが、この男の、唯一の元手だった。
その年の秋、南から、大きな軍が来た。
袁術の将、紀霊である。歩兵と騎兵あわせて、三万を号していた。
劉備の手勢は、数千に足りなかった。十に一つも勝ち目はない。袁術の狙いは、はっきりしていた。まず劉備を潰し、返す手で、徐州そのものを呑む。小沛は、その一撃目の的だった。
劉備は、筆を執った。
宛先は、下邳の呂布だった。陳到は、それを、傍らで見ていた。妻子を奪い、城を奪った男に、助けてくれと書く。張飛が、露骨に顔を歪めた。関羽は、何も言わずに、目を伏せた。
劉備は、書き終えると、使いに持たせた。それだけだった。
呂布の陣では、将たちが、こぞって反対したという。
劉備など、放っておけばよい。袁術が潰してくれるなら、手間が省ける。かねて劉備を殺せと言っていた者さえいた。だが呂布は、聞かなかった。
あとで漏れ聞いた呂布の理屈は、こうだった。
「劉備が潰れれば、袁術は北の連中と繋がる。そうなれば、わしは、その輪の真ん中に、ぽつんと残る。誰が、そんな絵を描かせるものか」
陳到は、その話を聞いて、意外に思った。
主を二人まで斬った男、風の向くまま渡り歩く男。そう思っていた呂布が、地図を見て、自分の置かれる場所を、きちんと数えている。武だけの男ではないらしかった。
呂布は、歩兵千と、騎二百だけを連れて、下邳を出た。
そして、小沛の西南、一里ばかりのところに、陣を張った。三万の紀霊と、数千の劉備と、その間に、千二百が、割り込むように腰を下ろした。
呂布は、両方に、使いを出した。
陣へ来て、飯を食え、というのである。
陳到は、劉備の供の一人として、その陣へ入った。
紀霊も、来ていた。三万を率いる将である。呂布のような男に呼びつけられて、面白かろうはずがない。それでも、来た。断って背を向ければ、この千二百が、どちらへ転ぶか分からなかったからだ。
呂布は、自分を真ん中にして、左右に、劉備と紀霊を座らせた。
陳到は、天幕の隅で、その三人を見ていた。妙な絵だった。徐州を奪った者と、奪われた者と、その二人をこれから食い合わせようとしていた者とが、同じ膳を挟んでいる。誰も、箸を進めなかった。
呂布が、口を開いた。
「玄徳は、わしの弟のようなものだ。弟が困っていると聞いたから、来た。わしは、人が斬り合うのを見るのが、どうも好かん。斬り合いを解くのが、好きなだけだ」
玄徳とは、劉備の字である。
紀霊の眉が、動いた。
三万を動かしてきた将に、千二百の男が、斬り合いをやめろと言っている。承服できるはずがなかった。だが、紀霊は、何も言わなかった。言えば、この場で刃が抜かれる。それが分かるだけの目は、持っている男だった。
呂布は、外の門番に、何か命じた。
しばらくして、天幕の外が、ざわめいた。陳到は、首を伸ばして、外を見た。
陣の門――轅門に、一本の戟が、地に突き立てられていた。
轅門とは、車の梶棒を左右に立てて門の形にした、陣の入口のことである。そこに立った戟の、真横へ張り出した小さな枝が、天幕からは、もう豆粒ほどにしか見えなかった。弓の届く、そのぎりぎりの遠さである。
呂布は、弓を取った。
「諸君、見ておれ。あの戟の、小枝を射る。一矢で当たったら、みな、兵を引いて帰ってくれ。外したら、好きなだけ、ここで決着をつければいい」
誰も、答えなかった。
紀霊が、外の戟を見た。それから、呂布の手元を見た。陳到も、見た。あの距離の、あの細い枝である。当たるわけがない、と陳到は思った。当たるわけがないから、この男は言い出したのだろう、とも思った。外れれば、戦になる。それだけのことだ。
呂布は、立ち上がった。
弦を引く動きに、力みが、まるでなかった。荷を持ち上げるでもなく、身構えるでもなく、ただ、腕を上げて、引いた。天幕の中の音が、消えた。
放った。
乾いた音が、遠くで、一つ鳴った。
戟の小枝が、弾けて飛んだのが、陳到にも見えた。
天幕の中で、誰かが、息を吐いた。それから、呂布の将たちが、口々に叫んだ。将軍の、天の威です、と。紀霊は、しばらく、外の戟を見ていた。そして、ゆっくりと、呂布に頭を下げた。
呂布は、弓を置いて、また座り、酒を注いだ。
「さあ、飲もう。天が、やめろと言ったのだ」
その夜は、三人で、飲んだ。
翌朝、紀霊は、三万を引いて、南へ帰っていった。小沛は、一兵も損なわずに、残った。
陳到は、帰り道で、そのことを、幾度も考えた。
土地もない。大義もない。仕えた主を二人まで斬り、頼ってきた男から城を奪った。世間の言う「立つ根拠」を、この呂布は、一つも持っていない。それなのに、三万と数千の間に千二百で割り込んで、腕一本で、その日の天下を、静かにさせてしまった。
武とは、まだ、これほどのものだった。
だが、と陳到は思った。腕一本で保たれた釣り合いは、その腕の主が気を変えれば、その日に終わる。今日の呂布は、劉備を助けた。明日の呂布が、何をするかは、呂布にしか分からない。いや、呂布自身にも、分からないのかもしれなかった。
劉備は、帰り道、何も言わなかった。
城を奪った男の隣で笑い、酒を受け、頭を下げて帰ってきた。その手が、手綱を握ったまま、一度も緩まなかったのを、陳到は、後ろから見ていた。
陣を出るとき、陳到は、闇の中に、一つの隊を見た。
酒宴の輪から離れて、七百ばかりが、しんと並んで座っていた。鎧も武具も、揃っていた。誰も飲んでいなかった。列が、暗がりの中でも、まっすぐだった。
あれは何かと供の者に尋ねると、高順の兵だ、という答えが返ってきた。
陳到は、その黙った列を、しばらく見ていた。轅門の戟を射抜いた腕よりも、この、飲まずに座っている七百のほうが、なぜか、後から思い出された。




