第6話:宛の夜
――建安二年(一九七年)、宛。
典韋は、曹操の陣の門を、預かっていた。
人並み外れた大男だった。両手に、常人には振れぬ重さの、大きな双戟を提げていた。曹操が、その武を見込んで、身辺を守る虎士とした。典韋にとって、曹操の身を守ることが、すべてだった。この一身に代えても、主を守る。それだけを、考えて生きてきた。
その夜、異変は、突然に来た。
張繡の兵が、闇にまぎれて、曹操の陣へ、なだれ込んできた。
降ったはずの兵が、牙を剝いた。寝入っていた曹操軍は、たちまち崩れた。あちこちで火が上がり、悲鳴が上がった。曹操は、辛くも身を起こし、逃げにかかった。
典韋は、陣の門に、立ちはだかった。
主を、逃がす。
そのために、この門を、一歩も通さぬ。典韋は、双戟を振るって、殺到する敵を、なぎ倒した。一人が、何十人を相手に、門を塞いだ。敵は、その一人を越えられず、門の前に、屍を積み上げた。典韋の双戟が、重い音を立てて、振られるたびに、敵が、二人、三人と、倒れた。
だが、敵は、いくらでも湧いてきた。
典韋の体に、矢が刺さり、槍が突き立った。一つ、また一つと、傷が増えていった。それでも、典韋は、門を離れなかった。血にまみれ、双戟の片方を失い、それでも、残った一戟で、敵を薙いだ。主が、まだ、逃げ切っていない。ならば、この門は、塞いだままだ。
やがて、典韋は、立ったまま、動かなくなった。
十いくつもの傷を負い、目を見開いたまま、門の真ん中に、仁王立ちに、死んでいた。
その凄まじさに、敵の兵も、しばらく、近づけなかった。一人の武が、門一つを、死んでもなお、塞いでいた。個人の武が、まだ、これほどの意味を持つ時代だった。典韋が稼いだ、そのわずかな時が、主の命を、生かした。
典韋は、最後まで、主を逃がすことだけを、考えていた。
その主が、逃げる道で、何を失うことになるかは、典韋は、知らずに死んだ。




