第8話:狩りの野
――建安五年(二〇〇年)、揚州。
その報せは、程普にとって、あまりに、あっけなかった。
孫策は、江東を固め、いままさに、北へ目を向けようとしていた。中原では、曹操と袁紹とが、大きくぶつかろうとしている。その隙を突いて、都の天子を、江東へ迎える――孫策は、そんな大きな絵を、描きはじめていた。疾い風が、いよいよ、天下へ向かって、吹こうとしていた。
その北を向く支度の最中に、程普は、一つ、いやなものを見た。
于吉という、老いた道士がいた。江東に流れてきて久しく、方々に道を説く庵を建て、護符を焼いた灰を水に溶いて、病人に飲ませていた。効く、と人は言った。飲んで癒えた者が、あちこちにいるのだという。程普には、その効き目のほどは、分からなかった。ただ、この老人が城下を通ると、道の両側の者が、みな、地に伏すのは、見ていた。
その日、孫策は、城門の楼の上に、諸将を集めていた。
北へ出る手はずを、割っている最中だった。楼の下の道を、于吉が通った。
楼の上の者が、次々と、席を立った。
将が、賓客が、下へ降りていった。降りて、道の脇に伏し、老いた道士を拝んだ。楼に残ったのは、三人に一人ほどであった。孫策が、その空いた席を、見渡した。
程普は、その横顔を見て、背筋が冷えた。
「あれは、何だ」
と、孫策は言った。低い声だった。
「おれの将が、おれの前を立って、あの老いぼれに額をつける。この土地の者の心は、おれのものではないのか。おれが、この地を斬り取ったのだ。斬り取った地の人心を、護符の水ひとすくいで、あの男が持っていく」
孫策は、于吉を、捕らえさせた。
母の呉夫人が、止めた。あの者は、民に恵みを施した者だ、殺してはならぬ、と。城下の女たちが、幾人も、母のもとへすがりに来たという。孫策は、聞かなかった。聞かずに、斬らせた。屍は、市に晒された。
その日から、孫策の周りの空気が、変わった、と程普は思った。
民は、口をつぐんだ。つぐんだまま、目だけが、動いた。夜のうちに、晒された屍が消えたという噂が立った。天へ昇ったのだ、と言う者があった。誰かが持ち去って葬ったのだろう、と程普は思った。だが、そう言ってやる相手は、どこにもいなかった。
外から来た武が、土地に根を張った者を、また一人、斬った。廬江で陸康を倒したときと、同じだった。ただ、あのときは、城の主を倒した。今度は、人の心を握っていた老人を、市で斬った。斬れば、土地は黙る。黙った土地が、何を思っているかは、斬った者には、見えない。
程普は、その見えなさを、不吉に思った。思ったが、若い主に、言う言葉を持たなかった。
その矢先だった。
孫策は、狩りに出ていた。
軽装で、供を先に行かせ、自慢の速い馬で、一人、獲物を追っていた。動く武の主は、狩りでも、じっとしてはいられなかった。
その、供とはぐれた一瞬を、狙った者たちがいた。
かつて孫策が滅ぼした、許貢という男の、食客たちだった。主の仇を討つために、身を潜めて、この一瞬を待っていた。彼らは、藪から現れ、孫策へ、矢を射かけた。一本が、孫策の頬を、深く貫いた。
孫策は、その手練れの三人を、逆に斬り伏せた。
斬り伏せたが、頬の傷は、深かった。供が駆けつけたときには、孫策は、血まみれで、馬から崩れかけていた。
傷は、癒えなかった。
名医が手を尽くしたが、若い体は、日に日に、弱っていった。枕元に侍った者が、のちに、こんなことを言った。傷を検めようと鏡を取らせた孫策が、その鏡の中に、市で斬った老いた道士の顔を見て、叫んだ、と。程普は、その話を、信じなかった。信じなかったが、否とも言わなかった。斬られた者の顔が、斬った者の鏡に映る。そういう話を、人は、どうしても、こしらえたがるものだった。程普は、その枕元に、幾度も座った。下邳の列で孫堅に付いてから、父を看取り、いままた、子を看取ろうとしている。あの、命のやり取りのただなかで笑っていた若者の顔は、いま、青ざめて、痩せていた。
孫策は、二十六で、死んだ。
父・孫堅が、道半ばで倒れたのと、同じだった。いや、孫策のほうが、なお若く、なお疾かった。疾く吹いた風は、疾いぶんだけ、早く、止んだ。程普が幾度も見てきた、あの止み方だった。
程普は、その死に顔を見ながら、思った。
この家は、二代続けて、動く武で起ち、二代続けて、その武の疾さのままに、道半ばで散った。孫堅も、孫策も、御せぬ武で駆け抜けて、御しきれぬうちに、倒れた。ならば、この家は、ここで、終わるのか。




