第7話:固辞と受諾
――興平元年(一九四年)、徐州下邳。
その年、徐州の陶謙が、病んで死んだ。
死の間際、陶謙は、徐州を、劉備に託すと言い遺した。
徐州の主だった者たちが、劉備を、徐州牧に推した。麋竺という、代々の富商の出の者。孔融という、名の高い学者。そして、徐州に代々根を張る大族の当主、陳登――字を元龍という男。
なかでも、熱心だったのは、陳登だった。
下邳の陳家は、この地に広い田を持ち、代々、徐州の政を支えてきた家である。陳登は、劉備の前に進み出て、こう言った。
「この徐州のために、歩兵騎兵あわせて十万を、集めてご覧に入れましょう。あなたがこの州を保ってくださるなら、我ら土地の者は、力を惜しみませぬ」
陳到は、その言葉を、少し離れて聞いていた。
陳登の目は、劉備という人を、見てはいなかった。その後ろの、徐州という土地を、見ていた。この大族の当主にとって、大事なのは、誰が主になるかではない。誰であれ、この徐州を、乱から守り、大族の田を安んじてくれる者ならば、それでよかった。麋竺が、劉備という一人の人に、身を投げ出して賭けるのとは、まるで逆だった。陳登は、土地に仕える者だった。土地を守れる者にこそ、従う。もし劉備が、この徐州を守りきれなくなれば、この男は、次に徐州を握る者へ、同じ顔で、頭を下げるのだろう。
同じ「劉備を推す」でも、麋竺と陳登とでは、根が、まるで違っていた。
劉備は、固辞した。
「袁術が、すぐ近くにいる。四世三公の名門だ。徐州は、あの人が継ぐべきだ。私のような者が受ければ、天下の物笑いになる」
劉備は、幾度も、首を横に振った。
陳到は、その固辞を、後ろから見ていた。本心からの固辞なのか、器を示すための身振りなのか、陳到には、読めなかった。おそらく、劉備自身にも、その境目は、はっきりしていないのだろう。徳と、狡さと、その両方が、劉備の中では、澄まずに溶け合っていた。
諫める者も、いた。
劉備の別駕――補佐役を務めていた、潁川の陳群である。陳群は、劉備の前に進み出て、静かに言った。
「徐州を受けてはなりません。いま袁術と、すぐ東の呂布とが、この地を狙っています。袁術が正面から攻め、その隙に呂布が背後を突く。徐州は、受けた途端に、二人に挟まれます。守り切れませぬ」
劉備は、陳群の言葉を、聞いた。
聞いて、それでも、受けた。麋竺や孔融の推戴を、三たび固辞したのち、ついに、徐州牧の印を受け取った。土地を持たぬ流浪の客将が、はじめて、一州の主になった。
陳群は、それきり、口を噤んだ。
まもなく、陳群は、劉備のもとを、静かに去った。容れられぬ諫言を、幾度もする男ではなかった。一度言って、容れられねば、去る。陳到は、その痩せた背が、離れていくのを見送った。名のある潁川の名士が、また一人、この土地なき将のもとから、去っていった。
残ったのは、麋竺のような、賭ける者だった。
麋竺は、劉備のために、財を惜しまなかった。のちには、家の蔵の底までも、そして自分の妹までも、この土地なき将に差し出すことになる。
得を計る者は去り、賭ける者が残る。
陳到は、自分もまた、その、得の計れぬほうの一人なのだ、と思った。




