第6話:借り物の名目
――興平元年(一九四年)、豫州小沛。
陶謙は、劉備を、豫州刺史として、小沛に置いた。
刺史とは、州を監督する官である。だが、劉備の豫州刺史は、名ばかりだった。豫州の地を、実際に治めているわけではない。陶謙が、徐州を守る楯として、劉備に与えた、借り物の名目に過ぎなかった。
それでも、劉備の列は、少しずつ、増えていった。
陳到は、その軍の中に、劉備と寝食を共にする、二人の将がいるのを知った。関羽と、張飛である。二人は、劉備が故郷で旗を挙げた頃からの、いちばん古い供だという。世間は、三人を、義兄弟のように言った。だが、陳到が間近で見たものは、盟いの言葉でも、血を啜る儀式でもなかった。
ただ、同じ皿から飯を食い、同じ床で眠る、それだけのことだった。
劉備が座れば、関羽と張飛は、その後ろに、一日じゅうでも立っていた。
人の集まる宴の席でも、二人は座らず、劉備の背後に控えていた。誰かがそれを労うと、二人は、当たり前のことをしているだけだ、という顔をした。言葉で誓った義ではない。長い年月、同じ釜の飯を食ううちに、体に染みついた絆だった。陳到は、それを見て、世間が噂するような、血を啜って誓った派手な絆よりも、こちらのほうが、よほど断ちがたいものだ、と思った。
その二人とは、まるで型の違う古参も、いた。
簡雍である。劉備と同じ涿郡の生まれで、少年のころからの、いちばん古い顔だという。武でも、文でもない。列に加わってからこのかた、陳到は、この男が槍を振るうのも、帳面を繰るのも、見たことがなかった。
簡雍がするのは、話をつけることだった。
近隣の県へ使いに立ち、豪族の家へ上がり込み、しばらく話して、帰ってくる。帰ってくると、なぜか、糧が届いたり、通してもらえなかった道が通れるようになっていたりした。どういう話をつけてきたのかを、簡雍は、いちいち言わなかった。
その男の、坐り方が、また、変わっていた。
関羽と張飛が、劉備の背後に一日じゅうでも立っているのに、簡雍は、主公の前で、平気で足を投げ出して坐った。人が集まる席では、寝そべって物を言うことさえあった。無礼といえば、無礼であった。誰も、咎めなかった。劉備自身が、いちばん、咎めなかった。
陳到は、それを見て、思った。
この一党には、命を懸けて背後に立つ者と、その背後の張り詰めを、こうして緩めてしまう者と、両方が要るのだ。緩める役は、外から来た者には、務まらない。少年のころから同じ土を踏んだ者にしか、その無礼は、許されなかった。
もう一人、同じ役を負う男が、この頃、加わっていた。
孫乾である。北海の生まれで、この地の大学者――鄭玄が、劉備に薦めたのだという。鄭玄といえば、天下の学者がその注を頼りにする、経書の第一人者である。その老学者が、土地も持たぬ一人の客将のために、弟子筋の男を一人、口をきいて送り込んだ。
陳到は、そのことに、驚いた。
名のある学者は、名のある家に人を送るものだ、と思っていた。だが、鄭玄は、この万年敗者のもとへ、送った。主公が、行く先々で、名のある者に「惜しい」と思われるらしい、ということを、陳到は、そのころから、少しずつ、知りはじめた。
孫乾は、簡雍と違って、丁寧な男だった。
言葉を選び、腰を折り、相手の顔色を読んだ。だが、やることは、同じだった。使いに立ち、話をつけ、帰ってくる。土地を持たぬ一党は、どこへ行くにも、先に、話をつけておかねばならなかった。北の袁紹へも、南の劉表へも、この二人が、先に立って、道を作ることになる。
劉備には、土地が無かった。
だが、関羽がいて、張飛がいて、簡雍と孫乾がいて、いま、陳到も加わった。土地の代わりに、離れぬ人が、少しずつ、劉備の周りに集まっていた。それが、この男の、ただ一つの財産だった。城でも、田でもない。人が、地盤の代わりだった。
だが、その財産から、去っていく者も、いた。
田豫という、若い男である。北の幽州の生まれで、公孫瓚のもとにいた頃、まだ年若い身で、みずから劉備に身を託した。劉備は、この若者を、ひどく買っていた。年の離れた者と語るときの、あの、腰の低い聞き方を、田豫にもしていた。
その田豫が、暇を乞いに来た。
母が、老いております、と田豫は言った。郷里に、置いたままです。それだけを、告げた。ほかには、何も言わなかった。この土地なき将のもとに留まっても先がない、とは、口が裂けても言わぬ男だった。
劉備は、引き止めなかった。
引き止めずに、涙を、流した。
「君と、共に、大事を成せぬのが――それだけが、恨めしい」
陳到は、少し離れて、それを見ていた。
主公は、去る者を、責めなかった。責める代わりに、泣いた。泣かれた田豫のほうが、かえって、身の置き所を失ったような顔をして、幾度も頭を下げ、北へ帰っていった。
のちに、陳到は、風の便りに聞くことになる。北へ帰った田豫が、やがて魏の将となり、北辺で、塞の外の諸族を相手に、長く名を成したと。同じ頃、劉備と若い日に交わったという牽招という男も、袁紹から曹操へと渡って、同じ北辺の守りに就いたと。若い日に主公と交わった二人が、揃って、遠い北の果てで、別の主のために、生涯を費やす。
もっとも、人という地盤は、土地よりも、なお不確かだった。
陳到は、まだ、それを知らなかった。




