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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第五章 客将

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第1話:白馬の砕ける音

 ――初平三年(一九二年)、青州。


 趙雲(ちょううん)は、北の生まれだった。

 常山の郷里から、義兵を率いて公孫瓚(こうそんさん)のもとへ身を寄せた。公孫瓚は、北の辺境で異民族を相手に武名を上げた将で、白馬に乗る善射の兵ばかりを選んで、自ら白馬義従(はくばぎじゅう)と名づけていた。白い馬の一隊が野を駆ければ、胡の兵は、その姿を見ただけで逃げるといわれた。趙雲も、馬の扱いにかけては、誰にも引けを取らなかった。

 その趙雲を、公孫瓚は、一人の客将のもとへ回した。


 劉備である。

 公孫瓚と同じ学び舎で若い頃を過ごした縁で、身を寄せていた。兵は、わずかしか持たぬ。城も、土地も、無い。公孫瓚は、劉備を別部司馬とし、青州刺史の田楷(でんかい)につけて、袁紹の軍と戦わせた。別部司馬とは、本隊とは別に、一隊を預かる武官のことである。趙雲は、その劉備隊の、馬の隊を預かることになった。

 趙雲は、はじめ、この客将を、値踏みするような目で見ていた。

 土地もなく、兵も少なく、負けが込んでいる。なぜこの男の下に置かれるのか、と。だが、青州の前線で幾度か馬を並べるうちに、趙雲の目は、変わっていった。劉備は、兵の名を覚えた。傷ついた者の傍らに、身分の隔てなく膝をついた。負けても、逃げる兵を置き去りにしなかった。何も持たぬ男が、持っているものが、一つだけあった。付いてきた者を、離さない、というその一点だった。


 冀州のほうから、報せが届いたのは、その頃だった。

 界橋(かいきょう)で、公孫瓚が、袁紹に大敗したという。

 趙雲は、その報せの中身を聞いて、耳を疑った。砕かれたのが、あの白馬義従だというのだ。

 袁紹の側に、麴義(きくぎ)という将がいた。その麴義の兵が、地に伏せて待ち、白馬が目の前に迫るまで動かず、間近に引きつけてから、一斉に石弓を放ったのだという。誇り高い白馬の一隊は、駆ける勢いのまま、その石弓の壁に突っ込んで、砕けた。伏せて待つ規律の前に、駆ける武名は、ひとたまりもなかった。


 趙雲は、その話を、馬の背で聞いていた。

 北の胡さえ怯えさせた白馬義従が、伏せて放つ石弓に、砕かれた。個人の馬術も、部隊の武名も、頭を低くして待つ、組織の力の前には、崩れるのだ。趙雲は、自分の馬の首を、そっと撫でた。この馬の速さも、いつか、伏せて待つ誰かの石弓の前で、意味を失う日が来るのかもしれなかった。

 その頃から、公孫瓚は、変わっていった。

 公孫瓚のいる幽州には、もう一人、州の頂に据えられた人がいた。劉虞(りゅうぐ)である。漢の血を引く宗室で、幽州牧として、北辺の民にも、胡の民にも、慕われてきた。武でなく、政と徳とで北辺を鎮めてきた人だった。

 趙雲は、北の生まれである。その政の中身を、書物ではなく、暮らしのほうから知っていた。

 劉虞は、上谷(じょうこく)に、塞の外の民と物を売り買いする市を開いた。外の民が馬と皮を運び入れ、内の民が布と穀を並べた。漁陽(ぎょよう)では塩と鉄を掘らせて、その利を州じゅうに回した。おかげで、幽州の穀の値は、一石が三十銭まで下がった。乱を逃れた者が、青州から、徐州から、北へ北へと流れてきて、その数は、百万を超えたといわれた。

 その州牧が、どんな身なりでいるかも、趙雲は知っていた。

 劉虞は、破れた衣を着て、縄で編んだ履をはいていた。膳に、肉を二品と並べたことがない。州の頂に据えられた漢の宗室が、郷の年寄りより貧しい格好で、政をしていた。北の民がこの人を慕うのは、血筋のせいではなかった。


 公孫瓚が見ていたのは、まるで別のものだった。

 公孫瓚は、塞の外の烏桓(うがん)を、根こそぎ討ち払うつもりでいた。市を開いて物を通わせるのは、賊に餌をやるのと同じだ、というのがその考えだった。まだ幽州にいた頃、趙雲は、味方の隊が北の道で、荷を積んだ車の列を止めるのを見たことがある。

 朝廷から、塞の外の族長たちへ贈られる品だった。劉虞が、都に願って、通させていたものである。

 公孫瓚の兵は、その車を、そのまま自分の陣へ引いていった。同じことが、一度ではなかった。


 趙雲は、幽州の陣で耳にした話を、うまく飲み下せずにいた。

 公孫瓚の家は、代々、郡を治める高い官を出す家だった。だが、母の身分が低かったので、公孫瓚自身は、郡の小役人から身を起こしている。その公孫瓚は、幕下に才のある名家の子弟がいると、わざと低い役に据え、暮らしに困るところまで落とした。


「家柄のよい家の子は、位を上げてやっても、富ませてやっても、当たり前の顔をするだけだ。恩には、思わん」


 公孫瓚は、そう言ったという。

 代わりに、この将が義兄弟の契りを結んだのは、町の占い師と、絹を商う男と、市の商人だった。趙雲は、その話を聞いたとき、坐りが悪くなった。人を家柄で選ばない。そこまでは、分かる。だが、家柄のよい者を、家柄がよいというそれだけの理由で踏みつける。それは、選んでいるのではなく、恨んでいるのではないか。


 やがて、二人が都へ、互いを弾劾する上奏を送り合ったという話が、青州の陣にまで届いた。

 劉虞は、公孫瓚が兵を放って民から掠め、塞の外へ贈る品を奪っている、と書いた。公孫瓚は、劉虞が糧を出し渋り、軍を養う気がない、と書いた。二通の書状は、どちらも長安へ運ばれ、天子の前に置かれた。

 都は、どちらにも返事をしなかった。

 趙雲は、その一事に、いちばん背筋が寒くなった。四年前、州牧という重い官を作り、地方の兵と民を任せると決めたのは、都である。その都が、任せた二人が北の果てで噛み合っているのを、裁けない。どちらかを召し、どちらかを退ける、その一言が出せない。返事が来ないというのは、返事を出す力がもう無いということだった。北辺は、都の外へ、こぼれ落ちていた。


 趙雲は、その劉虞について、前の年に流れた噂を、思い出した。

 天子が長安へさらわれ、東の諸侯が、誰を戴けばよいのかで揺れていた頃のことだ。袁紹たちが、この劉虞を、新しい皇帝に推そうとした。血筋も、人望も、申し分ない。都の天子が賊の手中にある以上、東に別の帝を立てるほかない、と。

 だが、劉虞は、それを、はねつけたという。


「天子は、いま、都を追われて長安におられる。その臣が、勝手に別の帝を立てて、どうして大義が立つか。無理に押しつけるというなら、私は、匈奴の地へでも逃れて、二度と戻らぬ」


 趙雲は、その噂を聞いたとき、妙に、胸の澄む心地がした。

 誰もが土地と兵を数えている世に、差し出された帝位を、大義ひとつのために突き返した人がいる。宗室の重みとは、こういうことか、と趙雲は思った。だが同時に、こうも思った。その重みは、規範としては、天下の誰より重い。では、実力としては、どうなのか。突き返す手のほかに、この人は、何を持っているのか。

 答えは、まだ、出ていなかった。

 ただ、趙雲には、一つだけ見えていることがあった。上谷に市を開く手と、その市へ通う車を止める手とが、同じ一つの州の中で、向き合っている。片方は、兵を持たない。もう片方は、白馬義従を失ってなお、幽州でいちばん多くの兵を握っている。

 北辺で武名を上げた将は、その名分を、自分の手で汚しはじめていた。

 趙雲は、この頃には、もう、公孫瓚のもとに長くはいられぬ、と感じはじめていた。


 趙雲は、兄の喪を口実に、公孫瓚のもとを去ることにした。

 劉備は、それを引き止めなかった。ただ、趙雲の手を、両手で握った。


「また、会おう」


 趙雲には、分かった。この客将は、自分が公孫瓚のもとへは戻らぬことを、見抜いている。見抜いたうえで、責めもせず、ただ、また会おう、と言っている。

 趙雲は、うなずいた。

 いつか、この土地なき男が、どこかに拠って立つ日が来たら――そのときは、この手を、もう一度握りに来よう。趙雲は、そう思いながら、北へ去った。劉備が、どこにも根を張れぬまま、それでも人を離さずに漂っていくのを、趙雲は、しばらくのあいだ、見なくなる。


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