第7話:取り戻す
――興平二年(一九五年)、兗州。
いなごが去り、わずかに畑が戻ると、戦が、また動き出した。
曹操は、飢えをくぐり抜けた軍を立て直し、呂布に攻めかかった。一度、三県まで削られた男が、そこから、県を一つずつ、取り返しはじめた。地盤が人の心なら、その心を、また一つずつ、剣で握り直していくしかなかった。
呂布は、支えきれなくなった。
無双の武はあっても、呂布には、飢えをしのぐ蔵も、崩れた心を繋ぐ地盤も、無かった。長安のときと、同じだった。強い兵はいる。だが、根を張る土地が無い。呂布は、兗州を捨て、東へ――徐州の、劉備という男のもとへ、また流れていった。
麦は、州が曹操の手に戻っていくのを、荷を担ぎながら見ていた。
裏切った者たちの末路も、伝わってきた。
張邈は、袁術に助けを求めようと、西へ走った。その途上、従っていた自分の兵に、殺された。蔵を開いて流民に粥を施したと噂された名士は、逃げる道の途中で、味方の刃にかかって、死んだ。弟の張超は、雍丘の城に籠もって戦い、囲まれて、一族もろとも滅んだ。
麦は、その報せを聞いて、粥の噂を、もう一度思い出した。
あの噂を聞いたとき、麦の胸は動かなかった。施されるべき者は、もう焼けていたからだ。そして今、施した人自身が、逃げる道の途中で、味方に斬られて死んだ。憐れむ心も、裏切る打算も、両方とも本当だった人が、その両方を抱えたまま、乱世に呑まれて消えた。
名のある人々は、蔵を開き、州を焼き、そして、味方に斬られて死ぬ。
麦のような者は、その世の底で、ただ、流されまいと踏ん張り、荷を担ぎ続ける。名家の心の底は、相変わらず、麦には見えなかった。ただ、見えないままに、その人々の起こす波が、下の者を、繰り返し洗っていくのだった。
曹操は、兗州を、取り戻した。
だが、麦の目にも、取り戻した州は、もう、前と同じ州には見えなかった。一度裏返った州だった。一度裏返ったという事実は、県を取り返しても、消えはしない。地盤とは、人の心のことで、人の心は、こうも容易く裏返る。麦は、この一年で、それを、下から見て取った。
荀彧が、帰ってきた曹操を、鄄城に迎えた。
二人は、麦の見ている前で、多くを語らなかった。ただ、荀彧は、また、政の帳面を開いた。曹操が剣で握り直した心の上に、もう一度、政の骨を組むのだろう、と麦は思った。
麦は、二人が話し終えるのを待って、蔵へ入った。
蔵の中は、去年より、明らかに空いていた。空いた分だけ、壁の低いところに、水の跡のような黒い線が残っている。穀が積まれていた高さの跡であった。麦は、その線に、手のひらを当ててみた。
頭より、ずっと低かった。
第四章 三県 ――完。




