第1話:裏返る州
――興平元年(一九四年)、兗州鄄城。
その報せは、一夜のうちに、次々と鄄城へ飛び込んできた。
曹操は、この年もまた、徐州を攻めに出ていた。父を殺された恨みは、一度の遠征では収まらなかった。鄄城には、荀彧が留守を預かって残っていた。兵糧を集め、政を回し、曹操の帰りを待つ。それが荀彧の役目だった。
曹操の背が見えなくなるのを待っていたように、州が、裏返った。
陳宮が、離れた。
二年前、兗州の役所を説いて回り、曹操を兗州牧に担いだ、あの陳宮である。その陳宮が、いま、陳留太守の張邈と組んで、呂布を兗州へ迎え入れた。呂布――長安を追われ、袁術に容れられず、袁紹にも警戒されて、行き場を失って流れていた、あの無双の武が、陳宮の手引きで、兗州に入った。
州の郡県は、なだれを打って、呂布に応じた。
昨日まで曹操に従っていた城が、一つ、また一つと、旗を裏返した。荀彧のもとへ届く報せは、どれも同じだった。あの城が応じた。この県が降った。曹操の一州が、指のあいだから、砂のようにこぼれていった。
残ったのは、三つの県だけだった。
鄄城と、范と、東阿。この三県のほかは、もう、曹操の兗州は、どこにも無かった。
荀彧は、その報せの一つひとつを、顔色も変えずに聞いた。
なぜ、こうも容易く裏返るのか。荀彧には、分かっていた。曹操は、この州を、剣で取った。だが、剣で取った地は、剣で守るしかない。その剣が徐州へ行っているあいだ、州を繋ぎ止めていたのは、人の心だった。そして、人の心は、砂よりも脆い。
きっかけは、曹操自身が作っていた。
曹操は、この兗州で、辺譲という名の高い学者を殺していた。曹操を悪しざまに言ったからだ。だが、名士を一人殺せば、その一人だけでは済まない。名士は、互いに縁で繋がっている。一人を殺された恐れが、州じゅうの名士に広がった。次は自分か、と。張邈も、その一人だった。
荀彧は、鄄城の城門を固く閉じさせた。
城の内にも、呂布に通じている者がいるはずだった。裏返るなら、この城も裏返る。荀彧は、兵の目を配り、蔵を検め、まだ味方である者と、もう味方でない者とを、静かに見分けはじめた。手勢は、わずかだった。三県のほかに、頼れる地は無かった。




