第5話:残り火
――中平元年(一八四年)、潁川。
その年のうちに、黄巾は、おおかた潰えた。
東の張角は、戦いの最中に病んで死んだという。頭を失った布の群れは、各地で焼かれ、散らされた。年号が改まり、中平という名になった。世が改まる、とは、こういうことだったのか。麦には、やはり分からなかった。改まったのは、年の名と、村から人が消えたことだけのように思えた。
禁が、解けた。
あの日、縁先で老人たちが話していた、あの禁だ。かれこれ二十年、官の門を閉ざされていた者たちが、また世に出てよいことになったという。賊が出たいま、賢い者を遊ばせておく余裕は、朝廷にもなかったらしい。
名のある人々が、次々と、官に戻っていった。そのひとり、劉表という人の名を、麦は荀家の下人から聞いた。誰のことか、麦は知らなかった。ただ、締め出されていた者たちが、いま、世に出ていく。それだけは分かった。
世に出たのは、名のある者ばかりではなかった。
賊を討つために、名もなき者たちも、各地で起っていた。郷里の若者を集め、手弁当で兵を組み、黄巾に立ち向かう。そういう小さな群れが、いくつも、できた。北の涿郡のほうでは、漢の帝室の血を引くと称しながら、藁の履物や敷物を売って暮らしていた男が、そうして起った、という噂が、どこからか流れてきた。帝の一族の末が、藁を売る。本当かどうかも、その男が誰なのかも、麦には分からなかった。ただ、その一片が、なぜか耳の底に残った。
荀家の若い人々も、世を見はじめていた。
荀彧は、相変わらず、庭の枯れた畑の向こうを見ていた。けれど、その目は、前よりも遠くを見ているようだった。賊は潰えた。だが、賊を潰した将たちが、それぞれに軍を持ち、地を持って、もとには戻らない。荀彧が、誰かに、低い声でそう言うのを、麦は聞いた。
「賊は消える。だが、賊を討った者たちの軍は、消えない」
意味は、麦には分からなかった。ただ、その声が、火を見た夜より、なお冷たく聞こえた。
麦は、焼けた畑をまた耕しはじめた。
納める家は、まだ丘の上にあった。耕す麦も、まだ生きていた。死んだ者は、もう何も納めない。生き残った者が、残りの世を耕す。麦は、それだけのことだと思おうとした。
東の空に、もう煙はなかった。けれど、麦には、それが消えた煙には見えなかった。地の下で、まだ燻っている火のように思えた。世が改まる、と道士は言った。改まりかけて、まだ改まりきっていない。その途中の、白く乾いた天の下で、麦は鍬を振った。
名のある人々が、世に出ていく。その背を、麦は、ずっと下から見ることになる。まだ、それを知らずに。
序章 漢が割れる前夜 ――完。




